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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)


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第13話 侍従長の庭園

侍従長の警告から二日後、サージュが顔色を変えて法務局の面会室に現れた。


「ヴァーゲンさん。問題が起きました」


いつもなら椅子に座ってから話し始めるこの人が、扉を開けた瞬間に口を開いた。眼鏡がわずかにずれている。走ってきたのだろう。この人が走るところを想像するのは難しいが、今の息の乱れ方は確かに走った人間のものだ。


「伯爵の調査チームに、人事異動の通達が出ました。チームの主任調査官が交替させられます。後任は——侍従長の推薦した人間です」


「つまり、調査チームを侍従長の息がかかった人間で固めようとしている」


「ええ。このまま行けば、伯爵の調査は形だけ進められて、侍従長に繋がる証拠は握り潰されます。主任が替われば、証拠の優先順位も変わる。都合の悪い書類は後回しにされて、やがて紛失する」


サージュが机の上に書類を広げた。異動通達の写しだ。発令者の欄に侍従長の名前がある。人事権を持つ人間が、調査の中身を操作しようとしている。権力の仕組みそのものを使った妨害だ。


「私の異動も、時間の問題かもしれません。法務局内で私を外す動きが出れば、この案件から引き離される」


「サージュさんが異動になったら、この調査は誰が引き継ぐの」


「後任は侍従長が選びます。つまり、実質的に調査は終わります」


私は息を吸った。深く。服の袖口からカモミールの残り香がする。今朝、香料庫で作業したときに移ったものだ。


「王太子妃殿下に直訴するのは?」


「考えました。ですが、侍従長は殿下の側近です。直訴すれば、殿下と侍従長のどちらを信じるかという問題になる。現時点では、侍従長が不正に関与している証拠は書簡一通と人事記録だけです。殿下を動かすには、もう一押し足りない」


「なら、証拠を増やすしかない。物的な証拠を」


「はい。ただし、今の方法では間に合いません。侍従長は伯爵と違って用心深い。自分の手を汚さず、記録も残さない。正面からでは証拠を掴めない」


私は考えた。香術師の頭で。


観察。仮説。検証。


侍従長が伯爵から銀蓮花の精製品を受け取っていたなら、それをどこかに保管しているはずだ。あるいは使用しているはずだ。銀蓮花の精製品は独特の残留痕を残す。木材や布に染みつく、甘くて金属的な残り香。香術師の鼻なら、それを嗅ぎ分けられる。


「サージュさん。銀蓮花の精製品は、使用後に特有の残留成分が空間に残ります。布や木材に染みつく性質がある。もし侍従長が精製品を保管していた場所があれば、私なら痕跡を特定できます」


「侍従長の居室に立ち入ることは、現状では不可能です。令状もなく侍従長の私室に踏み込めば、逆にこちらが処分されます」


「居室じゃなくてもいい。侍従長がよく使う場所——たとえば、庭園とか。公共の場なら、散歩の名目で立ち入れる」


サージュの目が光った。付箋を貼るときと同じ、鋭い集中の色。


「侍従長は毎週末、王宮の東庭園で茶会を開いています。宮廷の有力者を招いて。あの茶会は侍従長の権力の源泉です。招かれることが出世の条件と言われるほどの」


「茶会で使う香料の調合は、香術局が担当しているの?」


「いえ。侍従長は自前の調合師を雇っています。香術局を通していません」


「正規の香術師を通さない調合。それ自体が怪しいわ。もし銀蓮花の成分を含む香料を茶会で使っていたなら——」


「宮廷の有力者に対する、意識操作の可能性がある。鎮静、暗示——茶会の出席者が侍従長に従順になるのは、単なる権力だけではなかったかもしれない」


私たちは顔を見合わせた。仮説としては大胆すぎる。けれど、銀蓮花の用途を考えれば、あり得ない話ではない。



翌日、私は東庭園を訪れた。


茶会のない平日の庭園は静かだ。石畳の小道に薔薇の垣根が並び、中央に東屋がある。東屋は白い柱に蔦が絡む、優美な建物だ。手入れの行き届いた庭。美しいが、どこか人工的な完璧さがある。自然の庭ではなく、権力が作り上げた庭。


香術師の鼻を使った。空気を深く吸い込む。薔薇の香り、芝の匂い、石の冷たさ——そして、かすかに。


ほんのわずかだが、東屋の木材から、覚えのある匂いがした。


甘くて、少しだけ金属的な残り香。銀蓮花の精製品を長期間使用した場所に残る、特徴的な匂いだ。師匠に教わった。「この匂いを覚えておきなさい。禁制品の痕跡は、こうして残る。どんなに換気しても、木に染みついた匂いは消えない」と。


東屋の柱に手を触れた。木の表面に、微細な油膜がある。精製品を焚いたときに生じる油分が、木に染みついている。


目では見えない。だが、香術師の指先は感じ取る。師匠はこの技術を「指読み」と呼んでいた。「鼻で見つけ、指で確かめ、記録に残す」。香術師の鉄則だ。


「……見つけた」


声に出さずに呟いた。


証拠として採取する必要がある。だが、今ここで削り取れば、侍従長に気づかれる。慎重に、段階を踏まなければ。


庭園を出ようとしたとき、背後から声がかかった。


「何か、お探しかね」


振り返ると、侍従長が立っていた。五歩ほど後ろ。いつから見ていたのか。足音がしなかった。この体格で足音を消せる人間は、相当に神経を使っている。


にこやかな笑顔。だが、目は私の手元——東屋の柱に触れていた手を、見ていた。


「いいえ。庭園が美しかったので、少し散歩をしていただけです」


「そうかね。香術師は花がお好きだろう。——だが、この庭の花には触れないでもらいたいな。繊細な品種が多いのでね」


花のことを言っているのではない。これは二度目の警告だ。


侍従長が去っていった。悠然とした足取り。けれど振り返らなかった。振り返る必要がないと確信している歩き方。


法務局に戻り、サージュに報告した。


「銀蓮花の残留痕を確認しました。東屋の木材に染みついています。精製品を定期的に焚いていた証拠です。濃度から推測すると、少なくとも一年以上、定期的に使用されていました。ただし——」


「侍従長に見られた」


「ええ。気づかれた可能性が高い。証拠の隠滅に動くでしょう」


「であれば、急がなければ。東屋の木材を交換される前に、採取しなければ全て水の泡です」


「一人では危険です」


「一人じゃないわ。パスカルがいる。それに——」


私はサージュの目を見た。


「あなたがいる」


サージュが一瞬、言葉を失った。そして眼鏡の奥で、ほんの少しだけ目を細めた。


「……では、計画を立てましょう。今度は、失敗しない方法で」


窓の外で、夕日が落ちていく。宮廷の影が長く伸びて、回廊の石畳を暗く染めている。


師匠の手帖は懐にある。サージュの姉の告発文は証拠保管庫にある。二人の女性が命をかけて守ろうとした真実に、もう少しで手が届く。


——けれど翌日、予想もしなかった場所から新たな障害が現れた。コンラートが、騎士爵剥奪の不服申立てを提出したのだ。


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