第14話 英雄は二度目の嘘をつく
コンラートの不服申立ては、宮廷の空気を一変させた。
追放されたはずの男が、法の抜け穴を使って戻ってくる。聴聞会の裁定が揺らぐかもしれないという噂が、半日で宮廷中に広まった。香術局の同僚たちの表情にも動揺が見える。「テレーゼさん、大丈夫ですか」と声をかけてくる者もいた。
「騎士爵剥奪の判断は不当である。聴聞会における証拠の評価に重大な瑕疵がある」——書面にはそう記されていた。署名はコンラート本人だが、文章の質が違う。法律用語の使い方が正確すぎる。コンラートの知性では書けない文面だ。
「代筆ですね。法務の訓練を受けた人間が書いています。文中の条文引用が正確すぎる。しかも、聴聞会の裁定文を入手していなければ書けない内容が含まれている」
サージュが書面を一読して断じた。法務官の目は、文章の構造から書き手の素性を見抜く。
「裁定文を入手できるのは?」
「法務局の内部か——侍従長室です。おそらく、侍従長の息がかかった法務官が代筆したのでしょう」
コンラートに自力でこの書面を作る能力はない。彼は騎士だ。剣は使えても、法の言葉は使えない。誰かが背後で糸を引いている。不服申立てそのものが、侍従長の時間稼ぎの道具だ。
不服申立てが受理されれば、聴聞会の裁定が一時保留になる。伯爵の調査も影響を受ける。全てが振り出しに戻るわけではないが、貴重な時間を奪われる。
「受理される可能性は?」
「通常なら低い。証拠に基づく裁定を覆すのは容易ではありません。しかし、受理の判断を行うのは——」
「侍従長の管轄」
「ええ。不服申立ての受理審査は、侍従長室を経由します」
出来すぎた仕組みだ。権力を持つ人間が、権力の仕組みそのものを使って自分を守っている。攻撃しようとすると、防壁が自動的に立ち上がる。
「ヴァーゲンさん。一つ、提案があります」
サージュが書類を裏返し、白い面に万年筆で図を描き始めた。矢印と四角と線。この人が考えるとき、いつもこうやって構造を可視化する。
「不服申立てを阻止するのではなく、逆に利用します」
「利用する?」
「不服申立てが審理されるとき、コンラートは法廷に出なければならない。弁明の機会が与えられる代わりに、反対尋問も受ける。その場で、新たな証拠を突きつけるのです」
「新たな証拠って——」
「ダフネの告発文と、侍従長の書簡です。不服申立ての審理は聴聞会よりも広い範囲を対象にできる。関連する人物の不正についても証言が許されます。コンラートが自ら開いた法廷が、侍従長の不正を暴く舞台になる」
「コンラートの不服申立てを足がかりにして、侍従長にまで切り込む。敵の武器を、こちらの武器に変える」
「はい。コンラートは自分で招いた法廷の場で、自分が知らなかった真実を目の当たりにすることになる。侍従長に利用されていただけだと気づいたとき、あの男がどう動くか——それも含めて、こちらの計算に入れます」
サージュの声は静かだったが、その目には冷たい炎が灯っていた。法務官としての怒りが、計画の精度を研ぎ澄ませている。この人が本気で怒るとき、感情は熱ではなく精度に変わる。
「はい。ただし、それには東庭園の証拠採取を先に終えなければならない。物的証拠なしでは、書簡だけでは弱い。侍従長を追い詰めるには、銀蓮花の残留痕という動かせない物証が必要です」
時間との戦いだ。不服申立ての審理が先か、証拠採取が先か。二つの時計が同時に回っている。
◇
その夜、宿舎に戻ると、扉の前にナターシャが座っていた。
子どもを膝に乗せ、壁にもたれている。子どもは眠っている。栗色の髪が母親の腕に広がっていた。廊下の灯りが、二人の輪郭を柔らかく照らしている。
「テレーゼさん。話したいことがあって」
「中に入って。外は冷える」
部屋に入り、温かい飲み物を用意した。カモミールの茶葉は香料庫から持ち帰ったものだ。師匠が乾燥させた最後の収穫分。もう残りは少ない。
ナターシャは子どもを寝台に寝かせてから、杯を受け取った。両手で包み込むように持つ。寒い夜に温かい飲み物を手にする人間の、本能的な仕草。
「コンラートが来たの。今日の昼過ぎに」
「あなたのところに?」
「うん。不服申立てのことで。私に証言を撤回してほしいって。『子どものためを思え』って」
子どものためを思え。コンラートの常套句だ。「きみのためを思って」の変形。自分の都合を、相手への配慮に偽装する話法。十年間、私もその言葉に騙されてきた。
「どう答えたの」
「断った。この子のために正しいことをすると、私はもう決めたから。——でもね、テレーゼさん」
ナターシャの目が揺れた。カモミールの湯気の向こうで、不安が揺らめいている。
「コンラートが帰り際に言ったの。『侍従長が動いている。香術師は排除される』って。脅しなのか、警告なのか、わからなかった。でも——あの顔は、怯えていた。コンラートの目が泳いでいたの。隣国にいたときにも見たことがないくらい」
コンラートが怯えている。侍従長の力を知っているからだ。伯爵の下で働いていた男は、その上にいる人間の恐ろしさも知っている。
「ナターシャさん。コンラートは何を恐れているの」
「わからない。でも……隣国にいたとき、一度だけ、コンラートが『あの人には逆らえない。伯爵よりも上の人がいる』って言ってたことがある。酒に酔って、ぽつりと。翌朝には何も覚えていない顔をしていたけど」
伯爵よりも上の人。侍従長か。それとも——さらに別の人間がいるのか。
「ナターシャさん。怖い思いをさせてごめんなさい。でも、あなたの証言は撤回しないで。あなたの証言がなければ、コンラートの隣国での行動を証明する手段がなくなる」
「うん。撤回しない。この子のために」
ナターシャは寝台の上の子どもに視線を向けた。寝息が規則的に響いている。この子は何も知らない。大人たちの嘘と権力の争いのことも。
けれど、この子が大きくなったとき、母親が正しい側に立っていたと伝えられるように——ナターシャはその覚悟を、静かに背負っている。
杯のカモミールが冷めていた。ナターシャはそれを最後まで飲み干してから、子どもを抱き上げて帰っていった。
「おやすみなさい、テレーゼさん」
「おやすみ」
扉が閉まった後、空になった杯を見つめた。師匠のカモミール。もう残りは少ない。次の収穫は——私が育てなければならない。
ナターシャが帰った後、私は窓から宮廷の夜景を見た。遠くに、法務局の灯りが見える。サージュはまだ働いているのだろう。
その灯りが、暗い宮廷の中で小さく、けれど確かに光っている。
夜風が窓から入ってきた。カモミールの匂いがかすかにする。師匠が植えた花の匂いだ。この匂いがある限り、私は自分を見失わない。
——明日、東庭園に行く。今度は証拠を持ち帰る。侍従長が木材を入れ替える前に。時間はもう、ほとんど残されていない。




