第15話 毒を知る者
東庭園への潜入は、深夜に行うことにした。
パスカルが見張りを務め、私が採取を行い、サージュが法務局で待機して証拠を即座に封印する。三人の役割を事前に決めた。無駄な動きを一つも入れない。時間は限られている。
「テレーゼ先輩、僕、見張りの経験なんかないですけど」
「大丈夫。誰か来たら、この笛を吹いて。音は小さいけど、私には聞こえる」
パスカルに渡したのは、香術師が使う調合確認用の笛だ。特定の周波数の音を出す小さな道具で、調合中に素材の反応を音で確認するためのものだ。
夜の静けさの中なら、十分に聞こえる距離をカバーできる。師匠が手作りした笛で、カモミールの蒸気管を加工したものだ。
「この音が聞こえたら、すぐに隠れます」
「いい子ね。無理はしないで。危ないと思ったら逃げていい」
「逃げません。……先輩も、逃げないでしょう?」
パスカルの目が真剣だった。この子は成長している。ポケットの乾燥ラベンダーに触れる回数が減っている。
深夜の宮廷は静まり返っていた。巡回の衛兵の動きは、サージュが事前に調べてくれている。衛兵が東庭園の前を通過するのは、一刻ごと。その間隔の中で作業を終えなければならない。
パスカルを庭園の入口に残し、私は東屋に向かった。
月明かりが薔薇の垣根に影を落としている。夜の庭園は昼間とは違う匂いがする。花の香りが濃くなり、土の匂いが強まる。虫の声が遠くで鳴いている。
東屋の柱に手を触れた。三日前と同じ感触。木材はまだ交換されていない。間に合った。
懐から小さな削り刀を出した。師匠が使っていた道具だ。柱の裏側——目立たない場所から、木の表面をごく薄く削り取る。削った木片を油紙で包み、密封する。これで銀蓮花の残留成分を分析できる。
二本目の柱に移った。同じ作業を繰り返す。柱ごとに残留の濃度が違うはずだ。焚いていた場所に近いほど濃い。濃度の差から、精製品をどこで使用していたかが特定できる。
三本目の柱に手を伸ばしたとき——笛が鳴った。
高く、短い音。パスカルの合図。誰か来る。
私は削り刀を懐に戻し、東屋の陰に身を隠した。月明かりが届かない暗がりに体を滑り込ませる。心臓が速く打っている。
だが手は震えていない。香術師の手だ。呼吸を整える。吸って、止めて、吐く。師匠に教わった呼吸法だ。
誰かが近づいてくる。衛兵の巡回にしては時間が早い。しかも二人分。一つは重く、一つは軽い。
東屋の前で、歩みが止まった。私は息を殺した。
「——予定通り、明日の茶会で最後の分を焚く。その後、東屋は改装する。木材は全て入れ替えろ」
侍従長の声だ。低く、命令に慣れた声。
「承知いたしました。改装は三日で終わります」
別の男の声。聞き覚えがない。軽い足音の主だろう。
「木片の一つも残すな。あの香術師は鼻が利く。痕跡を嗅ぎ取られたら全てが終わる。——それと、例の件も急げ。伯爵の裁判が始まる前に、証人を黙らせろ」
証人を黙らせる。ハインツのことか。それとも——私たちのことか。
足音が遠ざかっていく。二つの足音が闇に消えるまで、私は動かなかった。
暗がりの中で、削り取った木片を握りしめていた。間一髪だった。明日の茶会が最後の使用で、その後に証拠は消される。
今夜、採取できたのは二本分。十分な量かどうかは、分析してみなければわからない。
◇
翌日。茶会の日。
私は香料庫で、採取した木片の分析を行った。
粉末にして蒸留し、抽出液を作る。抽出液に検出液を加えると——液が淡い紫色に変色した。
銀蓮花の残留成分の陽性反応。間違いない。紫色の濃さから、精製品の等級も推定できる。最高等級に近い純度だ。
さらに濃度を測定した。この濃度は、単なる芳香のための使用では出ない。意識に作用するレベルの精製品を、繰り返し使用していなければ、ここまで木材に染みつくことはない。
私は分析結果を書面にまとめた。香術師としての所見を添えて。師匠が教えてくれた報告書の書き方——事実、分析、推察を明確に分けて記載する。
法務局に持って行こうと香料庫を出たとき、中庭の向こうから騒ぎが聞こえた。
人が走る足音。叫び声。日常の宮廷にはあり得ない、切迫した空気。
パスカルが息を切らせて走ってきた。
「テレーゼ先輩! グスタフ侍従長が——茶会の最中に倒れたそうです!」
「倒れた?」
「東庭園の茶会で、突然。招待客の前で——」
パスカルの声が震えた。
「……亡くなったそうです。医師が駆けつけましたが、間に合わなかったと」
私は走った。
東庭園に着いたとき、すでに人だかりができていた。侍従長は東屋の床に横たわっていた。医師が脈を取っているが、首を振っている。招待客たちが青ざめた顔で遠巻きに見ている。
死因はまだ不明だ。けれど、東屋の中に立ったとき、私の鼻は確かに捉えた。銀蓮花の精製品の匂い。通常よりもはるかに濃い。部屋全体を覆うような濃度だ。
「最後の分を焚く」と昨夜、侍従長自身が指示していた。その最後の使用が、致命的な濃度になっていたのか。それとも——誰かが意図的に濃度を上げたのか。
医師に近づいた。
「すみません、少し見せてください。私は宮廷香術師です」
侍従長の顔を観察した。瞳孔が開いている。唇の端にわずかな変色。皮膚の末端が冷たい。
師匠の最期と、同じ症状だ。見間違えるはずがない。あの日の師匠の顔が、今も瞼の裏に焼きついている。
私は東屋の空気を深く吸い込んだ。銀蓮花の匂いに混じって、もう一つの匂いがある。苦くて鋭い、植物性の匂い。
トリカブト。
銀蓮花の強い芳香の陰に隠れて、トリカブトの成分が混入されていた。二つの成分を組み合わせれば、銀蓮花の匂いがトリカブトの存在を覆い隠す。巧妙な調合だ。知識がなければ不可能な配合。
同じ手口だ。師匠を殺したのと、同じ調合の手法。香術師でなければ気づかない。一般の医師では、銀蓮花の濃い芳香の陰に隠されたトリカブトを検出できないだろう。
だが、なぜ侍従長を。共犯者を殺す理由は一つ——口封じだ。伯爵の調査が進む中、侍従長が生きていれば、いずれ自分の関与を証言するかもしれない。その前に消した。伯爵は全権凍結中で直接手は下せない。ならば、伯爵の指示を受けて動く別の人間がいる。
「パスカル。サージュさんに伝えて。侍従長の死因は銀蓮花とトリカブトの複合中毒の可能性が高い。師匠と同じ手口だと。——そして、ハインツ・ブルクを至急捜索する必要があると」
パスカルが頷き、走り出した。
私は東屋に立ったまま、侍従長の亡骸を見下ろしていた。
この男は敵だった。師匠の死に加担した人間だ。それでも——殺されていい命など、ない。
手の中の分析結果の書面が、風に揺れた。
真犯人は、まだどこかで動いている。




