第16話 消えた男の足跡
侍従長の死は、宮廷を激しく揺さぶった。
廊下では囁き声が絶えず、会議は中断され、茶会は全て中止になった。二十年以上にわたって宮廷の実務を支えてきた男の突然の死は、組織の根幹を揺るがすものだった。
香術局にも動揺が広がっている。同僚たちが不安そうに顔を見合わせていた。誰もが思っているだろう。次は誰が倒れるのか、と。
王太子妃エルヴィーラは、自室に二日間こもった。側近中の側近を失った衝撃は計り知れないだろう。食事も取らず、面会も断った。侍女たちが扉の前で不安げに立っていたと、パスカルが教えてくれた。宮廷全体が、頭を失った体のように揺れている。
彼女が公の場に姿を見せたのは、三日目の昼だった。
「テレーゼ・ヴァーゲン。法務局のアンデール補佐官。二人をここに呼びなさい」
王太子妃の応接間に通されたとき、彼女の目は三日前とは違っていた。冷たさは同じだ。けれど、そこに怒りが混じっている。天秤が傾いた瞬間の目だ。均衡を重んじるこの人が、均衡を崩された怒り。
窓辺の花は枯れかけていた。三日間、水を換える者がいなかったのだろう。
「侍従長の死因について、あなたの所見を聞きたい」
「殿下。侍従長の死因は、銀蓮花とトリカブトの複合中毒と推察されます」
私は分析結果の書面を提出した。木片の分析データ、残留成分の濃度、オーレリア師匠の死との類似点。全てを含む報告書だ。サージュが付番した証拠番号と対応させてある。
王太子妃は報告書を黙って読んだ。一度、紅茶のカップに手を伸ばしかけて——止めた。毒の報告書を読みながら飲み物に手を伸ばすことの意味に、この人は気づいたのだ。
「……これが事実であれば、侍従長は殺害されたということになる」
「はい、殿下」
「そして、オーレリア香術局長の死も、同じ手口による殺害だった」
「その可能性が極めて高いと考えます。手口の一致は偶然では説明できません」
王太子妃がサージュに視線を移した。
「アンデール補佐官。侍従長とドレッサー伯爵の関係について、何を掴んでいる」
サージュが証拠袋を開き、侍従長の書簡とダフネの告発文を提出した。一つ一つの証拠を、番号順に、淡々と説明していく。法務官の声は感情を排して事実だけを伝える。
王太子妃の表情が、徐々に変わっていった。冷たさの中に、苦いものが滲む。裏切りの味だ。
「……侍従長が、私の知らないところで不正に関与していた。そう言いたいのね」
「証拠はそう示しています、殿下」
長い沈黙。応接間の窓辺の花が、かすかに萎れている。
「私は侍従長を信頼していた。二十年以上、この宮廷を共に運営してきた。——信頼が裏切られたことは不快だが、事実は事実だ。感情で事実を曲げるつもりはない」
王太子妃の声は平坦だったが、手がカップの取っ手を強く握っていた。白磁に指の跡がつくほどの力だ。
この人もまた、裏切られた人間なのだ。私が夫に裏切られたように。信じていた人間の嘘は、立場に関係なく、誰の心にも同じ傷を残す。
王太子妃が紅茶を飲んだ。今度は、ためらわずに。一口だけ。判断の儀式だ。
「調査の全権をアンデール補佐官に委任する。人事異動の通達は撤回。——それと、ハインツ・ブルクの捜索を命じる。宮廷の衛兵と騎士団に協力させなさい」
「ありがとうございます、殿下」
「礼は不要よ。秩序のためだと言ったでしょう。——ただし、今度こそ、全てを明らかにしなさい。半端な結果は許さない」
◇
法務局に戻ると、サージュが珍しく笑みに近い表情を浮かべた。口角がわずかに上がっただけだが、この人にしては大きな変化だ。
「殿下が動いてくれた。これで、正面から調査できます。人事妨害の心配もなくなった」
「ハインツの捜索は、どう進めるの」
「まず、彼の実家を調べます。ハインツ・ブルクの実家はドレッサー伯爵領内にある。伯爵領の調査権限も、今回の委任に含まれています。実家に手がかりがなければ、伯爵邸そのものを捜索します。地下に調合用の施設がある可能性がある」
「伯爵領に行くの?」
「はい。ヴァーゲンさんにも同行してもらいたい。ハインツの痕跡を辿るには、香術師の目が必要です。彼がどの素材をどこで調達していたか、調合の癖や使う道具——それを見分けられるのはあなただけです。法務官には香料の種類を嗅ぎ分ける能力がない」
「わかった。行きましょう」
パスカルが手を挙げた。控えめに、けれど躊躇なく。
「僕も行きます!」
「パスカル。あなたには王宮に残って、香料庫を守ってもらいたいの」
「え……でも」
「今、香術局で師匠の後を継げるのは、あなたと私しかいない。二人とも出払ったら、香料庫は空になる。伯爵の残党が何をするかわからない。師匠が守ってきた場所を、誰かが守らなければ。カモミールの手入れも、乾燥棚の管理も、あなたにしか任せられない」
パスカルは口を引き結んだ。悔しそうだが、理由は理解しているらしい。
「……わかりました。先輩の留守は僕が守ります。師匠の香料庫は、僕が」
「ありがとう。何かあったら、王太子妃殿下に直接報告して。殿下は今、私たちの味方よ」
パスカルが頷いた。拳を握っている。ポケットの乾燥ラベンダーに、今日は手を伸ばさなかった。この子の中で、何かが変わりつつある。師匠の弟子として、自分の足で立とうとしている。
「先輩。気をつけて行ってきてください。僕、ちゃんと留守を守ります。師匠の乾燥棚も、毎日手入れします」
「ありがとう、パスカル」
翌日、私とサージュは宮廷を出た。
伯爵領へ向かう馬車の中で、サージュが窓の外を見ながら言った。街道の並木が流れていく。緑が深い季節だ。木漏れ日が馬車の中に揺れる光を落としている。
「ヴァーゲンさん。伯爵領に行けば、ハインツの手がかりが見つかるはずです。ですが、一つだけ注意してください」
「何?」
「ハインツは香術師です。毒を扱える人間です。追い詰められたとき、何をするかわかりません。自分に対しても、他者に対しても」
その言葉に、一瞬だけ胸が痛んだ。ハインツが自分を傷つける可能性。裏切り者であっても、かつての同僚だ。あの人懐こい目元を思い出すと、複雑な感情が渦巻く。
「わかっています。——でも、私も香術師よ。毒の知識は、私の方が上。師匠が全部教えてくれたから」
サージュが眼鏡越しに私を見た。その目に、信頼の色がある。静かで、深い。
「心強い言葉です」
馬車が宮廷の正門を出た。振り返ると、王宮の高い尖塔が遠ざかっていく。朝の光を受けて、高い尖塔の先端が金色に光っている。
服の襟元に、香料庫の空気がまだ残っていた。カモミールとラベンダーが混ざった、師匠が守り続けた場所の匂いだ。
——しかし、伯爵領に待っていたのは、手がかりだけではなかった。




