第17話 伯爵領の暗い井戸
伯爵領は、王都から馬車で半日の距離にあった。
なだらかな丘陵地帯に広がる領地は豊かだった。畑には実りが見え、街道沿いの集落は整備されている。農民たちの服は粗末ではなく、子どもたちが道端で遊んでいる。伯爵がこの領地から上げる収益は、正規の分だけでも相当なものだろう。
それでも足りなかったのだ。あるいは——正規の利益では手に入らないものがあったのか。
ハインツの実家は、伯爵邸から二つほど離れた集落にあった。小さな平屋で、庭には荒れた畑がある。借地だとハインツは言っていた。伯爵領の借地は領主の意向で簡単に取り上げられる。ハインツの弱みの根源がここにある。
扉を叩くと、老婦人が出てきた。白髪を布で覆い、エプロンに粉がついている。焼きたてのパンの匂いがした。素朴で温かな家の匂い。ハインツの実家の匂いなのだろう。
「どなたさまで」
「王宮香術局のテレーゼ・ヴァーゲンと申します。ハインツさんのことでお伺いしたいのですが」
老婦人の顔が曇った。目尻の皺が深くなる。
「……あの子のことで、また何か」
「また、というのは?」
「半月ほど前に、あの子が突然帰ってきたのです。夜遅くに、荷物をまとめて、すぐに出ていった。行き先は言わなかった。顔色がひどく悪かった。目の下が窪んでいて、まるで何日も眠っていないような」
半月前。ハインツが香術局から姿を消した時期と一致する。裏切りが露見し、逃げてきた。母親の前を素通りして、道具だけを持って消えた。
「何か持ち出したものはありますか」
「仕事の道具を。調合に使う器具一式と、乾燥させた素材をいくつか。あの子は幼い頃から、裏の小屋で調合の練習をしていたんです。香術師になるのが夢でしたから。ラベンダーの茎を擦って匂いを嗅いで、『母さん、僕、この匂いで人を助ける仕事をするんだ』って」
老婦人の声には、息子を案じる温かみがあった。ハインツが何をしたか、この人は知らないのだろう。知ったら、どう思うだろうか。あの温和な人柄が、この家で育まれたものだとわかる。母親の愛情と、貧しいけれど正直な暮らしの中で。
「裏の小屋を見せていただけますか」
「構いませんけど……。散らかっていますよ。あの子、帰ってきたとき、ほとんど口をきかなかったんです。ただ『母さん、ごめん』とだけ言って」
ごめん。その一言に、どれだけの重さがあったのだろう。
小屋は家の裏手にあった。板壁の簡素な建物で、屋根に苔が生えている。扉の取っ手は木製で、長年の使用ですり減っている。
扉を開けると、中は散らかっていた。棚から道具が引き抜かれた跡があり、床に乾燥した素材の欠片が散らばっている。急いで必要なものだけを掴んで出たのだろう。
私は香術師の目で小屋を観察した。
残された素材を一つ一つ確認する。高山セージの茎。カモミールの花弁の屑。ラベンダーの種。これらは一般的な香術素材だ。
しかし——棚の奥に、見覚えのない瓶が一つ残されていた。小さな褐色の瓶。蓋が硬く閉められている。
手に取り、慎重に蓋を開けた。匂いを確認する。
甘い、金属的な残り香。
銀蓮花の精製品の残渣だ。ごく少量だが、間違いない。東庭園の東屋で嗅いだのと同じ匂い。
「サージュさん。これを」
サージュが証拠袋を差し出した。瓶を袋に入れ、日付と場所を記入する。彼の字は相変わらず端正だ。どんな状況でも、記録の質を落とさない。
「ハインツが精製品を持っていた。侍従長に納品する前の保管場所が、ここだったのかもしれません。あるいは、自分用の保険として少量を残していた」
小屋をさらに調べた。床板の一枚が他より新しい。釘の頭が光っている。最近打ち直されたものだ。板を持ち上げると、その下に浅い穴がある。土の匂いがする。中に油紙で包まれた束が入っていた。油紙は丁寧に折られている。大切なものを包むときの折り方だ。
手紙だった。
四十通以上の手紙。開封されていない。便箋の質が良い。封蝋が一通ごとに丁寧に押されている。
見覚えのある封蝋だ。私が使っている、カモミールの模様の印章。
「……これは」
私の手紙だった。
十年間、コンラートに宛てて書いた四十通以上の手紙。ハインツが止めていた手紙。焼かれたと思っていた手紙が、ここにあった。全て、未開封のまま。
手が震えた。膝から力が抜けそうになった。作業台に手をついて、体を支えた。
ハインツは手紙を焼かなかった。命じられた通りに処分すれば、証拠は残らなかったはずだ。なぜ——。
一通目の封筒に触れた。日付は十年前の秋。私が最初に書いた手紙だ。カモミールの印章の蝋が、十年経った今もしっかりと封を守っている。コンラートに届くはずだった言葉たちが、ここで十年間、眠っていた。
捨てられなかったのか。あの柔らかな物腰の裏で、この手紙を捨てられなかった。伯爵の密偵でありながら、私の手紙だけは処分できなかった。
そのことが、怒りよりも先に、深い場所を突いた。信じていた人間の裏切りの中に、微かな人間性の残滓を見つけてしまった痛み。
サージュが私の隣に立った。何も言わない。ただ、そこにいる。この人の沈黙には、いつも温度がある。
「……大丈夫。行きましょう。伯爵邸を調べないと」
◇
伯爵邸は丘の上にあった。大きな石造りの屋敷で、今は衛兵が入口を固めている。サージュの委任状で邸内の捜索が許可された。
書庫、執務室、寝室。一つ一つ調べていく。地下室の奥に、施錠された扉があった。衛兵が鍵を持っていない。サージュが法務局の権限で開錠を命じた。
扉の向こうは——調合室だった。
石の壁に囲まれた小さな部屋。蒸留器、乳鉢、秤、瓶が並ぶ棚。ここで銀蓮花の精製が行われていたのだろう。
壁に染みついた甘い匂いが、それを証明している。換気の悪い地下室だからこそ、匂いが外に逃げずに壁と天井に残った。蒸留器には精製品の残渣がこびりついている。最後に使われたのは、それほど昔ではない。
だが、この部屋で最も重要だったのは、壁に貼られた一枚の紙だった。
走り書きの文字。ハインツの筆跡だ。私は十年間、彼の字を見てきた。調合記録の丸みを帯びた独特の字。間違いない。
紙には、こう書かれていた。
『テレーゼ先輩。すべてを話す覚悟ができたら、古い井戸の下に来てください。——すみませんでした』
伯爵邸の裏庭に、使われなくなった石組みの古井戸があった。さっき通りすがりに見ていた。蓋が半分ずれて、中が暗く見えている。井戸の周囲だけ草が踏み荒らされていた。最近、誰かが出入りしている。
私はサージュを見た。
「行きましょう」
サージュが頷いた。
伯爵邸の裏庭へ——ハインツが待っているかもしれない場所へ、私たちは向かった。




