第18話 古井戸の告白
古井戸は伯爵邸の裏庭の隅にあった。
石組みの円筒に蔦が絡まり、木の蓋が乗せてある。使われなくなって何年も経つのだろう。蓋の上に落ち葉が積もっているが、端の方だけが綺麗に払われている。最近、出入りした跡だ。周囲の草も踏まれている。
「ヴァーゲンさん。先に私が降ります」
サージュが前に出た。懐から灯りの魔道具を取り出し、井戸の周囲を照らす。罠がないか確認しているのだろう。法務官は慎重だ。一つ一つの手順を飛ばさない。
木の蓋をずらすと、井戸の内側に鉄の梯子がついていた。錆びているが、まだ使える。水はとうに枯れている。梯子を降りた先に、横穴が続いている。伯爵邸の地下に繋がる抜け道だ。かつては非常時の脱出路として使われていたのだろう。
梯子を降りた。横穴は狭く、大人一人がやっと通れる幅しかない。壁は湿った石で、天井から水滴が落ちてくる。魔石の光が石壁に淡い影を投げかけている。
十歩ほど進んだところで、横穴が少し広くなった。天井が高くなり、大人二人が並んで立てる空間がある。
そこに、ハインツがいた。
壁にもたれて座っている。痩せていた。頬がこけ、目の下に深い隈がある。半月前に香料庫で対峙したときとは別人のようだ。穏やかな笑顔はどこにもなく、疲弊しきった顔をしている。髪は乱れ、顎に無精髭が伸びていた。
膝の上に、調合道具の入った革袋を抱えていた。手袋をしていない。素手の指先が、寒さで赤くなっている。
「……来たか」
「ハインツ」
「テレーゼ。それと——法務局の人。アンデールさんだっけ」
サージュが頷いた。灯りの魔道具を壁に置き、光源を安定させた。
「ハインツ・ブルク。あなたに聞きたいことがある」
「知ってる。全部話すよ。もう隠すことはない。隠す力も、残ってない」
ハインツが壁にもたれたまま、天井を見上げた。水滴が一つ、彼の頬に落ちた。拭わなかった。
「侍従長を殺したのは、伯爵の別の手駒だ。俺じゃない。外部の調合師——名前は知らない。顔も見たことがない。伯爵が闇で雇っている人間だ。銀蓮花の精製も、毒の調合も、そいつがやっていた」
「では、オーレリア先生の件は」
ハインツの目が揺れた。
「……直接手を下してはいない。けど、当番表を操作して、毒を入れる機会を作ったのは俺だ」
私の拳が握りしめられた。爪が掌に食い込む。
「先生のお茶に毒を入れたのは、伯爵が雇った外部の人間だ。俺は当番表をいじって、先生が一人で茶を飲む時間を作った。他の人間が香料庫を離れるように、調合の担当をずらした。——それだけだが、それだけで十分だ。俺がやったも同然だ」
ハインツの声は淡々としていた。感情を使い果たした人間の声だ。泣く力も、怒る力も、もう残っていない。
「なぜ、あんなことを」
「借地の件だと言っただろう。俺の実家は伯爵領の借地だ。伯爵に逆らえば、母さんが追い出される。それに——最初は情報を流すだけだと言われたんだ。先生の調査がどこまで進んでいるか、定期的に報告するだけ。それなら大きな害はないと思った。愚かだったよ」
「それが殺人の片棒を担ぐことになった」
「……ああ。気づいたときには、もう引き返せなかった。先生が倒れたとき、俺は——」
ハインツの声が初めて震えた。
「俺は香料庫に駆けつけたとき、本気で先生を助けたいと思った。嘘じゃない。あのとき叫んだ声は、演技じゃなかった。先生は俺の恩師でもあるんだ。先生に香術を教わった。テレーゼと一緒に。——あの頃の俺は、まだ」
言葉が途切れた。地下の水滴の音だけが、規則的に響いている。
私は黙っていた。ハインツの言葉が嘘かどうか、香術師の目で見極めようとした。瞳孔の動き、呼吸の乱れ、手の震え。
——嘘ではない。少なくとも、今この瞬間のハインツは、真実を語っている。
「ハインツ。あなたが今から法務局で正式に証言すれば、伯爵の有罪は確定する。侍従長の件も含めて、不正流通の全容が明らかになる」
サージュが静かに言った。感情を排した声。けれど、その声の底に、姉の死の重みがある。
「わかってる。証言する。法廷でも何でも立つ。ただ——一つだけ頼みがある」
「何」
「実家の母さんには、俺がしたことを直接伝えてほしい。他人の口からじゃなくて。テレーゼ、おまえの口から。おまえなら、母さんを傷つけないように言ってくれるだろう」
私は息を吸った。
この男は、私の手紙を十年間止めていた。師匠を殺す手助けをした。それでも——手紙を捨てられなかった男。母親を案じている男。
「……わかった」
ハインツが初めて、あの穏やかな笑顔に似たものを浮かべた。似ているだけで、同じではない。悲しみが混じった笑みだ。
「ありがとう。——あと、これを」
ハインツが革袋の中から、一冊の手帖を取り出した。私の懐にあるものと同じ大きさの、薄い手帖だ。表紙が擦り切れている。長い間、懐に入れて持ち歩いていたのだろう。
「伯爵と侍従長のやりとりを、俺なりに記録していたものだ。日付と内容。全部じゃないけど、主要なものは入ってる。伯爵からの指示、侍従長との連絡、香料の取引日程。——保険のつもりだった。いつか自分が消されるかもしれないと思って。だから、これだけは手元に残した。処分しろと言われても、できなかった。手紙と同じだ。俺は結局、何も捨てられなかった」
◇
井戸から出たとき、空は夕焼けに染まっていた。
ハインツは衛兵に引き渡された。サージュが身柄の拘束と証人保護を同時に手配した。法務官として、ハインツの安全を守りつつ、証言を確保するためだ。
馬車に戻る途中、サージュが言った。
「ヴァーゲンさん。ハインツの手帖を確認しました。伯爵から侍従長への指示の記録が含まれています。侍従長の書簡と突き合わせれば、不正流通の全容を再構成できます」
「それで、伯爵の有罪は確定する?」
「ほぼ確実です。加えて、コンラートの不服申立ても棄却できるでしょう。ハインツの証言が加われば、聴聞会の裁定を覆す根拠がなくなりますから」
私は馬車の窓から、沈んでいく夕日を見た。伯爵領の丘陵が赤く染まっている。
懐には二冊の手帖がある。師匠のものと、ハインツのもの。二つの記録が揃えば、十年の嘘の全体像が浮かび上がる。一方は正義の執念、もう一方は良心の欠片。それが一つの証拠となって法廷に立つ。
サージュの肩が、馬車の揺れの中で私の肩にかすかに触れた。偶然か、意図的か。
どちらでもいい。その温もりが、今の私には十分だった。
——けれど馬車が王都の門をくぐったとき、パスカルが門前で待っていた。走ってきたらしく、息を切らせている。そばかすの顔が蒼白だ。
「テレーゼ先輩! 大変です! 香料庫に何者かが侵入して——師匠の乾燥棚が、壊されています!」




