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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)


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第19話 壊された棚の意味

香料庫に駆けつけたとき、乾燥棚は無残な姿になっていた。


師匠が四十年かけて整えた棚の一角が、力任せに破壊されている。瓶が割れ、乾燥した花弁が床に散乱していた。カモミールの匂いが強烈に漂っている。粉々になった花弁から放たれる、甘い香り。師匠の手仕事が床に散らばっている。踏みにじられている。


「パスカル。けがはない?」


「はい。僕が見回りに行ったとき、もう犯人はいなかったです。扉の施錠は壊されていました。鍵穴の周りに道具で抉った跡がありました」


パスカルの声は震えているが、報告は正確だ。この子は観察ができるようになっている。


壊された箇所を丁寧に観察した。棚の裏の壁——煉瓦が並ぶ壁が、数箇所削られている。師匠が手帖を隠していた煉瓦の周辺だ。五つの煉瓦が引き抜かれ、中の空洞が露わになっている。


犯人は、手帖の隠し場所を知っていたのだ。そして、まだ他にも何かが隠されていると考えて、煉瓦を片端から調べたのだろう。手当たり次第に。焦りが見える。


手帖はもう回収済みだ。犯人が探していたものは、ここにはない。だが、この侵入は探索だけが目的ではない。


香料の瓶が割られている。特に、師匠が「最重要保管品」として別に管理していた棚が狙われていた。計画的な破壊だ。


保管品を確認した。


高山セージの乾燥品——無事。棚の奥に押し込まれていたおかげで、手が届かなかったのだろう。


黄金カモミールの抽出液——瓶が割れて流出。琥珀色の液体が棚板を染めている。師匠が三年もかけて精製した貴重な抽出液だ。もう二度と同じものは作れない。


そして——銀蓮花の標本品。これは——ない。棚にあったはずの場所が空になっている。ラベルだけが残されている。師匠の字で「銀蓮花(教育用標本・精製前原体)」と書かれたラベル。蝋で留められたラベルの端が、乱暴に剥がされかけている。


「銀蓮花の標本が盗まれている」


「銀蓮花? あの規制品の?」


「師匠が教育用に保管していたもの。精製前の原体だけど、適切な手順で調合すれば精製品を作れる。つまり——毒の原料になる」


犯人の目的がわかった。銀蓮花の原体を入手すること。新たな毒の原料を確保すること。そして、隠し場所にまだ証拠がないか確認すること。


「パスカル。衛兵に連絡して。宮廷の出入り記録を調べてもらって。昨夜から今朝にかけて、不審な人物の出入りがなかったか」


「もう調べました」


パスカルの言葉に、私は目を見開いた。この子は——私が不在の間に、自分の判断で動いていた。


「先輩が伯爵領に行っている間、すぐに王太子妃殿下に報告しました。殿下が衛兵に調査を命じてくれました。——結果は、昨夜の深夜に裏門から一人、正規の通行証を使って出入りしています。通行証の名義は——香術局の『予備員』になっていました」


「予備員? 香術局にそんな枠はないわ」


「はい。偽造です。でも、通行証の形式は本物でした。侍従長室の書式で発行されたものと同じだと、衛兵が言ってました」


侍従長は死んだ。だが、侍従長が生前に発行した通行証が、まだ有効なまま残っている。その通行証を使って、外部の人間が宮廷に入り込んだ。死んだ人間の権限が、まだ生きている。仕組みの隙間を突いた手口だ。


「外部の調合師ね。伯爵が雇っていた人間。ハインツが『名前も顔も知らない』と言っていた人物。侍従長を殺したのも、師匠を殺したのも、おそらく同じ人間」


「犯人の正体がわからないまま、裁判の日が近づいています。この人物を捕まえなければ、裁判当日に何が起きるかわからない」


「捕まえるのは衛兵と騎士団の仕事。私たちの仕事は、全員を毒から守ること。まず、防御を固めましょう」



法務局で、サージュと状況を整理した。


「侍従長を殺した人間と、香料庫に侵入した人間は同一人物の可能性が高い。侍従長の茶会で銀蓮花とトリカブトを混入する技術、師匠の茶に毒を仕込む手口——どちらも、香術の高度な知識がなければできない。そして今、銀蓮花の原体を手に入れた」


「標的は誰だと思いますか」


「わかりません。でも、伯爵の裁判に向けて不都合な人間——私か、あなたか、ナターシャか、あるいはハインツか。ハインツが証言すれば伯爵は終わりですから、証言前に消される可能性が最も高い。けれど、私たちも安全ではない」


サージュの表情が引き締まった。眼鏡の奥の目が鋭い。


「ハインツの身柄は法務局の保護下にあります。しかし、外部の人間が毒を使うとなると、食事や飲み物に混入される可能性がある。警備だけでは防げない。剣で毒は斬れませんから」


「私が対策を立てる。銀蓮花の検出方法を、全員の護衛に教えておく。それに——」


私は師匠の手帖を開いた。最後のページに、師匠が書き残した注記がある。


『銀蓮花の精製品の検出法——特定の検出液との反応で紫色に変色する。検出液の調合法は以下の通り』


師匠は、自分が毒殺される可能性を想定して、検出法まで記録していた。最後まで香術師だった。最後まで、後に続く者のために知識を残した。


「この検出法を使えば、飲み物や食べ物に銀蓮花が混入されているかどうか、事前に確認できます。裁判に関わる全員の飲食物を、この方法で検査します」


「全員の食事を、あなたが一人で?」


「香術師の仕事です。人の安全を守るために調合がある。師匠がいつも言っていたわ。『香術は人を守る技術だ。害するために使えば、それは香術師ではない』と」


サージュが黙って頷いた。眼鏡の奥の目が、深い信頼を映していた。


「ヴァーゲンさん。裁判は来週です。それまでの間、全員の安全を守りきれるかどうかが勝負です」


「守る。必ず。——パスカル」


パスカルが背筋を伸ばした。


「検出液の調合を手伝って。師匠のレシピ通りに、大量に作る。全員分の食事を検査するには、相当な量が必要だから」


「はい! 僕にもできますか」


「できるわ。あなたは師匠の弟子よ。調合の基礎は叩き込まれているでしょう。師匠が教えてくれた『計量は呼吸と同じ。毎回同じリズムで、同じ精度で』——覚えてる?」


「覚えてます。先生に百回くらい言われました」


「じゃあ大丈夫。百回叱られた技術は、体に染みついているわ」


パスカルの目が光った。初めて、恐怖ではなく使命感が顔に浮かんでいた。この子の中で、師匠の教えが根を張り始めている。


香料庫の壊された棚を見た。師匠の瓶が割れ、花弁が散らばった床。けれど棚の骨組みはまだ立っている。


壊されても、根こそぎにはされていない。修繕できる。パスカルが毎日手入れをしてくれている。師匠が植えたものは、簡単には枯れない。弟子たちの手がある限り。


——この一週間を、乗り切る。全員で生きて、法廷に立つ。



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