第20話 法廷の前夜
裁判の前日。
私は香料庫の作業台で、検出用の液を小瓶に詰め続けていた。一つ一つにラベルを貼る。師匠がそうしていたように、丁寧な字で品名と日付を書き入れる。
師匠の字には及ばないけれど、同じやり方で、同じ心構えで。窓から差し込む西日が、小瓶の中の液を淡く光らせている。
この一週間、毎日全員の食事と飲み物を検査した。パスカルが検出液の調合を担当し、私が検査を行い、サージュが記録をつけた。
三人の連携は、日を追うごとに滑らかになっていった。パスカルの調合は正確で、師匠に叩き込まれた計量の技術が確実に身についている。
ナターシャの食事も毎日検査した。彼女は子どもの分まで検査してほしいと頼んできた。当然だ。母親として当然の要求だ。
ハインツの食事は法務局の護衛を通じて検査した。ハインツ自身も、自分の調合知識を活かして自衛しているらしい。皮肉な話だ。毒を作る技術と、毒を防ぐ技術は同じ知識から生まれる。
幸い、銀蓮花の反応は一度も検出されなかった。外部の調合師は宮廷に再び侵入することはなかった。王太子妃が衛兵の警備を強化し、侍従長名義の通行証を全て無効にしたからだろう。
だが、油断はできない。裁判当日が最も危険だ。法廷に集まる全員の安全を、最後の瞬間まで守り抜かなければならない。
「テレーゼ先輩」
パスカルが香料庫に入ってきた。修繕した棚の前に立ち、瓶を一つずつ並べ直している。師匠が残した配置を再現しようとしているのだ。カモミールの瓶を右端に、ラベンダーを左端に、セージを中央に。師匠の美学を、この子は覚えている。
「先輩。明日の裁判、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。証拠は揃っている。師匠の手帖、ハインツの手帖、侍従長の書簡、ナターシャの証言、銀蓮花の分析結果、人事記録、隣国の香術師連絡網の返信。全部、サージュさんが番号を振って整理してくれた」
「僕、傍聴席に座ってもいいですか」
「もちろん。師匠の弟子として、見届けてほしい」
パスカルが頷いた。真剣な目だ。ポケットに手を入れかけて——止めた。乾燥ラベンダーに頼らず、自分の意志で立とうとしている。
「先輩。オーレリア先生なら、何て言うと思いますか」
「……師匠なら——『泣くなら全部終わってからにしなさい』って言うわね。あと、『証拠は嘘をつかない。おまえの目を信じなさい』って」
パスカルが小さく笑った。師匠の口癖を知っている者だけがわかる笑みだ。
「もう一つ言うと思います。『馬鹿な弟子たちだね。でも、馬鹿は馬鹿なりに一生懸命だから許してやる』って」
私も笑った。目の奥が少しだけ熱くなった。
◇
夜、法務局でサージュと最終打ち合わせをした。
机の上に、裁判で使う証拠が全て並べられている。付箋が色分けされた書類の束が、整然と並ぶ。黄色、青、赤。サージュの付箋は、もう見慣れた風景になっていた。この色の組み合わせが、私たちの武器だ。
「明日の流れを確認します。まず、ドレッサー伯爵の香料不正流通について審理。証拠は十分です。次に、オーレリア先生とダフネ・アンデールの死亡事案。ハインツの証言がここで出ます。最後に、侍従長グスタフ・エッケルトの死亡事案と、外部調合師の捜索令状の請求」
「コンラートの不服申立ては」
「ハインツの証言が出た時点で棄却される見込みです。不服申立てそのものが、侍従長の策略だったと証明されますから」
「あの人は——どうなるのかしら」
「追放の裁定は維持されます。騎士爵の回復はありません。——ただ、命まで奪われることはない。法は報復のためにあるのではなく、秩序を取り戻すためにある」
サージュの言葉に、不思議な安堵を覚えた。コンラートを憎んでいるはずなのに、命が助かることに安堵している。
十年間夫だった人間の命を、完全に切り捨てることはできない。それが弱さなのか、それとも人間であることの証なのか。今の私には、まだわからない。
サージュが書類を揃え、鞄に入れた。万年筆のキャップを閉め、インク瓶の蓋を確認する。いつもの、正確な動作。けれど今夜は、その動作の一つ一つが丁寧すぎるほど丁寧だった。最後の準備をする人間の手つきだ。
「ヴァーゲンさん」
「何?」
「明日で、一つの区切りがつきます。伯爵の不正、オーレリア先生の死、ダフネの死——全てに、ようやく法の裁きが下る。五年間——私は五年間、この日を待っていました」
「ええ。私は十年待った。師匠は四十年。みんな、長い間この日を待っていた」
サージュが眼鏡を外した。レンズを布で拭く。その手が、いつもより少しだけ遅い。
「裁判が終わったら——お茶でも飲みましょう。カモミールのお茶がいいです」
私は少し驚いた。この人の口から「お茶」という言葉が出るとは思わなかった。法の言葉と付箋の色しか知らないような顔をしているのに。
「……いいわね。私が淹れます。師匠直伝の、美味しい淹れ方を知ってるの。花弁の量と蒸らす時間が大事で、師匠にだいぶ叱られながら覚えたんだけど。最初の一年は毎回やり直しをさせられたわ」
「それだけ叩き込まれた技術なら、きっと美味しいでしょう」
「楽しみにしています」
サージュが眼鏡をかけ直した。その動作が、いつもより少しだけゆっくりだった。レンズの向こうの目が、穏やかだった。この人がこんな目をするのを知っているのは、きっと私だけだ。
法務局を出て、宿舎に向かう。回廊の窓から、月明かりが差し込んでいる。石畳に月の光が白く落ちている。夜風が冷たいが、心地よい。頭が冴える。明日のために、今夜はよく眠らなければ。
師匠が命を懸けて守った記録。サージュの姉が勇気を持って書いた告発文。ハインツが捨てられなかった手紙。ナターシャが子どものために語った証言。
モーリッツが最後に見せた騎士の誇り。パスカルが走り続けた足。サージュが貼り続けた付箋。そして、私が香術師として十年間積み上げてきた観察と分析の全て。
全ての点が、明日の法廷で一本の線になる。十年分の嘘を、一日で終わらせる。
宿舎の扉を開けたとき、懐の手帖がかすかにカモミールの匂いを放った。師匠の匂い。十年分の記録が染みついた紙の匂い。この匂いがある限り、師匠は私と一緒にいる。
机の上に、ナターシャからの手紙が置いてあった。短い文面だ。「明日、傍聴席にいます。この子と一緒に。——頑張って。テレーゼさん」
ナターシャの字は丸くて素朴だ。コンラートに騙されていた女性の、飾らない正直な字。この人も明日、法廷に立つ覚悟を決めている。
「師匠。明日、行ってきます」
声に出して、はっきりと言った。誰にも聞こえない独り言。
——けれど、聞こえた気がした。「馬鹿だね。泣くなら全部終わってからにしな」という、あの呆れたような笑い声が。




