第21話 法廷の朝
法廷の扉が開いたとき、私の手は震えていなかった。
師匠の手帖が懐にある。ハインツの手帖が鞄にある。サージュが整理した証拠一式が、番号順に並んでいる。黄色、青、赤の付箋が貼られた書類の束。この色の組み合わせを、私はもう迷わずに読める。
法廷は宮廷の東翼にある石造りの大広間だ。天井が高く、窓から差し込む光が石の床に長い影を落としている。壁には王家の紋章が彫り込まれている。ここで下される言葉は、王の名において効力を持つ。
足の裏から石の冷たさが伝わってくる。この場所の重みが、全身に沁みる。
傍聴席にはすでに人が詰めかけていた。宮廷の貴族たち、法務局の官吏たち、報告書を手にした記録官たち。立ち見の者までいる。これほどの人数が法廷に集まるのは稀なことだとサージュが言っていた。
空気が緊張で張り詰めている。咳払いの音一つが、石の壁に反響して消える。
ナターシャが傍聴席の端に座っていた。子どもを膝に抱えている。小さな手が母親の袖を握っている。目が合うと、ナターシャが静かに頷いた。覚悟を決めた母親の目。この人は、ここにいることを選んだ。
パスカルは最前列にいた。背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を見ている。ポケットに手は入れていない。師匠の正装を借りたのだろう、白い前掛けにカモミールの刺繍が見えた。
裁判長席に王太子妃エルヴィーラが着いた。白い法衣に銀の装飾。両脇に法務官が二名。彼女の表情は聴聞会のときと変わらない。冷静で、感情を秤に乗せない目だ。
被告席にはドレッサー伯爵が座っている。全権凍結から数週間。以前のゆとりある体格がやつれ、頬の肉が落ちていた。しかし目だけは鋭い。追い詰められてなお、隙を探している目。
その隣に——コンラートがいた。不服申立ての審理のために出廷している。十年間「極秘任務」と嘘をついた男。騎士服はもう着ていない。地味な平服を着て、被告席の端に座っている。
かつての堂々とした佇まいは消えていた。肩が落ち、背中が丸い。英雄の凱旋を飾った男とは別人だ。
目が合った。コンラートが何か言いかけて、口を閉じた。あの柔らかな笑顔はない。代わりにあるのは疲弊と恐怖だ。十年間演じ続けた「英雄」の仮面が、完全に剥がれている。
サージュが私の隣に立った。黒い法服。眼鏡のレンズが光を反射して、一瞬だけ目が隠れた。
「始めます」
その一言に、迷いはなかった。
◇
審理は、サージュの冒頭陳述から始まった。
「本件は、ドレッサー伯爵による銀蓮花の不正流通、およびそれに関連する三名の死亡事案について審理するものです」
三名。オーレリア師匠。ダフネ・アンデール。グスタフ・エッケルト侍従長。三つの名前を読み上げるとき、姉の名前だけ、ほんの一瞬だけ間があった。だがサージュはそれ以上の感情を見せなかった。
証拠を番号順に提示していく。取引記録、侍従長の書簡、ダフネの告発文、師匠の手帖の写し、人事記録、銀蓮花の分析結果。
サージュの提示の仕方には一切の無駄がない。証拠の番号を読み上げ、内容を要約し、関連する証拠との繋がりを示す。点と点を線にしていく作業だ。法務官の真骨頂。
一つ提示するごとに、傍聴席がざわめく。伯爵の顔が少しずつ硬くなる。弁護人がしきりに耳打ちしているが、伯爵は首を振るだけだ。
ナターシャの証言が読み上げられた。隣国での生活の証言、コンラートの重婚の事実、伯爵が任務を偽装していた経緯。ナターシャ自身が書面で提出したものだ。傍聴席のナターシャは、自分の言葉が法廷に響くのを、子どもを抱いたまま聞いていた。
モーリッツの遺言証言も読み上げられた。老騎士が最後に残した言葉。コンラートの任務が実態のないものだったこと、伯爵が騎士団内で不正を隠蔽していたこと。亡き人の声が、法廷に蘇る。
コンラートの表情が歪んだ。モーリッツの名前を聞いたときだ。あの老騎士を、この男も慕っていたのかもしれない。あるいは——恐れていたのか。
私の出番が来た。
証人席に立つ。石の台に手を置いた。冷たい。だがその冷たさが集中を助けてくれる。
「テレーゼ・ヴァーゲン。香術局所属、宮廷香術師。銀蓮花の残留成分に関する鑑定結果を証言します」
木片の分析データ、東庭園の東屋から採取した検体、ハインツの実家で発見した精製品の残渣。全てを説明した。
師匠に教わった報告の型——事実、分析、推察を明確に分けて述べる。声の高さも速度も一定に保つ。感情を排して、事実だけを正確に伝える。師匠が四十年かけて磨いた技術を、私は今、法の場で使っている。
「銀蓮花の精製品は、意識操作に使用できる濃度で東屋の木材に残留していました。芳香目的の使用では説明できません」
伯爵の弁護人が立ち上がった。
「異議。香術師の主観的な判断に過ぎません」
「検出液による定量分析の結果です。反応の色の濃淡から精製品の等級と使用頻度を推定できます。手法は香術局の公式手順に準拠しています」
私の声は揺れなかった。石壁に反響する自分の声を聞きながら、師匠の声が重なるのを感じた。「証拠は嘘をつかない」。
王太子妃が頷いた。異議は退けられた。
傍聴席が、わずかに安堵の空気を漏らした。伯爵側の弁護人が書類をめくる手が速くなっている。反論の材料を探しているのだろう。だが、証拠は積み上がっている。
証人席を降りるとき、パスカルと目が合った。目が赤い。泣くのを堪えているのだ。私が師匠の教えを法廷で語ったことが、この子には堪えたのだろう。
サージュが私に小さく頷いた。「よくやりました」。言葉にはしなかったが、あの目がそう言っていた。
次の証人はハインツだ。護衛に付き添われて入ってくる。痩せた体に証人服を着ている。井戸の底で見た、あの覚悟の表情だ。法廷に入った瞬間、伯爵と目が合った。伯爵の目が細くなった。
ハインツは怯まなかった。真っ直ぐに証人席へ向かう。その足取りに迷いはない。
ハインツが証人席に着いた瞬間——法廷の空気が変わった。
傍聴席の後方で、小さな音がした。硝子が割れる音。そして、甘い匂いが広がった。
銀蓮花だ。
私の鼻がもう一つの匂いを捉えた。苦くて鋭い。トリカブト。師匠を殺し、侍従長を殺した、あの複合毒。
空気中に散布されている。法廷は密閉された空間だ。窓は閉じている。石の壁と天井が毒気を閉じ込める。このままでは、ここにいる全員が吸い込む。
ハインツが証人席で身を竦めた。この匂いの意味を、元香術局員である彼も知っている。死の匂いだ。
伯爵が——笑った。ほんの一瞬、口角が上がった。この事態を予測していた顔だ。いや、予測ではない。仕組んだのだ。
「全員、口と鼻を塞いで! 窓を開けて!」
私は叫んだ。法廷の全員が危険にさらされている。




