第22話 硝子瓶の行方
法廷が混乱に陥った。
傍聴席の人々が立ち上がり、出口に殺到する。叫び声と椅子が倒れる音が折り重なる。甘い匂いが空気の中を這うように広がっていく。
王太子妃の護衛が法壇の前に壁を作った。伯爵の弁護人が机の下に身を屈めている。コンラートは被告席で立ち尽くしていた。何が起きたのか理解できていない顔だ。
私は証人席の脇から飛び出した。懐から検出液の小瓶を取り出す。この一週間、常に持ち歩いていたものだ。師匠の検出法。師匠が最後のページに残してくれた知恵が、今ここで全員の命を守る。
白い布を引き抜き、検出液を垂らして空気に晒す。布が淡い紫に染まった。陽性反応。しかし——色が薄い。
致死量には達していない。
「濃度が低い! 窓を開ければ大丈夫です! 落ち着いて、窓を!」
声を張り上げた。衛兵たちが窓を開け放つ。外の風が法廷に流れ込み、甘い匂いが薄まっていく。
石造りの天井が高いことが幸いした。毒気が上方に拡散し、窓から抜けていく。何人かが咳き込んでいるが、倒れた者はいない。
間に合った。
サージュが駆け寄ってきた。法服の裾が乱れている。
「ヴァーゲンさん。体は」
「大丈夫。吸い込んだ量は微量よ。ハインツは?」
振り返った。ハインツは護衛に守られて法廷の隅に退避している。蒼白な顔だが、意識はある。護衛が壁を背にして体を盾にしていた。
ナターシャは子どもを抱きかかえて反対側の壁際にいた。子どもを自分の体で覆っている。子どもは泣いていない。母親の腕の中で、ただ目を見開いている。
パスカルが傍聴席から走り寄ってきた。息を切らせているが、目が鋭い。
「テレーゼ先輩! 僕、見ました!」
「何を」
「瓶を投げた人です。傍聴席の後ろの扉の近くに立っていました。黒い外套に深い帽子。中肉中背で——右足をわずかに引きずっていました」
右足を引きずる。ハインツが伯爵邸で見た「先生」と同じ特徴だ。外部の調合師。師匠を殺し、侍従長を殺した男と同じ技術を持つ人間。
「他に気づいたことは?」
「瓶は小さかったです。掌に収まるくらいの。褐色の硝子瓶で——ハインツさんの実家の小屋にあったのと、同じ形だったと思います」
パスカルの観察力に驚いた。この子は、伯爵領には行っていない。だが、私が報告した瓶の特徴を覚えていたのだ。師匠の教え——「見たものは全て記憶せよ」——がこの子にも根づいている。
「瓶を投げた直後に扉から出ていきました。東翼の回廊の方角です」
私はサージュを見た。
「法廷に紛れ込んでいた。傍聴席に」
サージュの目が冷たく光った。
「致死量ではなかった。殺害が目的ではない。裁判の中断が狙いだ。ハインツの証言を遅らせて時間を稼ぐ。逃走か証拠隠滅の猶予を作ろうとした」
「でも失敗した。法廷は一時閉鎖されただけで、明日には再開される」
「ええ。この犯人は追い詰められている。法廷テロという大胆な手段に出たのは、他に方法がなくなった証拠です」
王太子妃が法壇から声を上げた。混乱の中でもこの人の声は揺るがない。
「法廷を一時閉鎖する。全員、医師の検査を受けなさい。——アンデール補佐官。犯人の追跡を命じます。衛兵隊に全面協力させなさい」
王太子妃の命令は即座に実行された。衛兵たちが配置につき、法廷の出入り口が封鎖される。医師団が駆けつけ、傍聴席の人々を一人ずつ検査し始めた。
私はナターシャのところへ行った。
「大丈夫? 子どもは」
「大丈夫。テレーゼさんが叫んでくれたから、すぐに口を塞げた。——ありがとう」
ナターシャの手が震えていた。だが子どもをしっかりと抱いている。この人は強い。
◇
法廷閉鎖の後、私は東翼の回廊を走った。
靴の底が石畳を叩く音が反響する。サージュと衛兵二名が後に続く。走りながら、空気の匂いを嗅いだ。香術師の鼻は、走っていても機能する。師匠が言っていた。「鼻は止められない。目は閉じられるが、鼻は常に開いている」と。
かすかに——甘い残り香。銀蓮花の痕跡が回廊の空気に点々と残っている。犯人の服から精製品が零れたのだろう。急いで逃げるあまり、痕跡を消す余裕がなかった。
「こっちです。南に向かっている」
私が先導した。回廊を南へ進み、使用人用の階段を降りる。階段の手すりにも残り香がへばりついている。指で触れると、わずかに油膜がある。
階段の下に、地下通路の入口があった。宮廷の古い排水路に繋がる通路だ。石壁が湿り、冷たい風が吹き出している。暗い。灯りがなければ数歩先も見えない。
入口の石段に、靴底の泥汚れがついていた。まだ乾いていない。ごく最近の足跡だ。
そしてその横に、黒い布の切れ端が落ちていた。
香料庫の棚に引っかかっていたのと同じ布地。外部の調合師が使う作業手袋の切れ端だ。
「サージュさん。これを」
サージュが証拠袋に布片を回収した。
「地下を追いますか」
衛兵が尋ねた。サージュが首を振った。
「暗所で毒を扱える人間を追うのは危険すぎる。出口を全て封鎖してください。地下通路の出口は三箇所あります。全てに衛兵を配置して」
私は布片を手に取った。黒い木綿。粗い織り目。手触りに特徴がある。
指先で織り目を確認する。縦糸と横糸の太さが不揃いで、手織りの跡がある。機械織りの均一な布とは明らかに違う。
この織り方には覚えがある。伯爵領で見た布と同じ質感だ。ハインツの実家がある集落の近くで織られる、安価な木綿。ハインツの小屋にあった手袋と同じ布地。あの老婦人のエプロンの布地とも一致する。
「サージュさん。この織り目、伯爵領の集落のものよ」
「確かですか」
「香術師は素材の産地を見分ける訓練を受けています。この布の織り方は独特で、伯爵領南端の集落以外では見たことがない」
サージュの表情が引き締まった。
「犯人は伯爵領に拠点を持つ人間。法廷テロは失敗したが、犯人はまだ自由に動いている。——明日、裁判を再開します。ハインツの証言を完遂させた上で、犯人の特定に移る」
法務局に戻る途中、サージュが立ち止まった。回廊の窓から夕日が差している。
「ヴァーゲンさん。今日のあなたの判断が、法廷の全員を救いました。検出液を常に携帯していたこと、濃度を即座に判定したこと。——香術師でなければできなかった」
「師匠の教えよ。『備えは日常の中にある』って」
サージュが眼鏡越しに私を見た。いつもの冷静な目。だがその奥に、言葉にしない温度がある。
「明日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
サージュの手が、ほんの一瞬だけ私の肩に触れた。すぐに離れた。だがその温度は残った。
夕日が回廊の石畳を赤く染めていた。長い一日が終わろうとしている。
——そしてハインツの証言は、まだ終わっていない。




