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極秘任務と称して十年間帰らなかった夫が 隣国で別の家庭を築いていました  作者: 渚月(なづき)
第3章

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第29話 新しい棚

ルッツの裁判は、一日で終わった。


証拠が圧倒的だった。ルッツ自身の手帖、地下室から押収された調合道具と素材、ハインツの証言、布片の織り目の一致、銀蓮花の精製品の分析結果。全てがルッツの犯行を指し示していた。


法廷に立つルッツの姿は、地下室で見たときよりさらに小さく見えた。白髪が増えている。右足は相変わらず引きずっている。二十年間、闇の中で技術を振るい続けた男の末路がここにある。


ルッツは法廷で一切の弁明をしなかった。弁護人が情状酌量を求めたが、王太子妃は認めなかった。


「ルッツ・ヴァイラー。三名の殺害、法廷テロの実行、禁制品の不正調合。有罪。終身禁錮」


裁定が下った。ルッツは衛兵に連れられて退廷した。最後に私を見た。その目に恨みはなく——疲労だけがあった。二十年間戦い続けた男が、ようやく止まった。


法廷を出ると、パスカルが走ってきた。


「テレーゼ先輩! 終わりましたね!」


「終わったわ」


「師匠の仇が——全部——」


パスカルの声が詰まった。目から涙がこぼれた。この子はずっと堪えていたのだ。師匠が亡くなってから、法廷テロの恐怖の中でも、伯爵領への遠征でも。全部が終わった今、ようやく泣ける。


私はパスカルの頭に手を置いた。そばかすの顔がくしゃくしゃになっている。


「泣いていいよ。師匠も許してくれる。——『馬鹿だね。でも、よくやったよ』って」


パスカルが声を上げて泣いた。回廊に泣き声が響いた。通りかかった官吏たちが足を止めたが、誰も止めなかった。この涙の意味を、宮廷の人々も理解している。


しばらくして、パスカルが袖で目を拭いた。鼻をすすりながら、顔を上げた。


「先輩。僕、もう大丈夫です」


「うん。——師匠なら『泣くのは五分まで。六分目からは仕事に戻りなさい』って言うわね」


「五分は超えましたか」


「少しだけ」


パスカルが笑った。泣いたあとの笑顔は、いつもより明るい。


サージュが回廊の向こうから歩いてきた。法服を着たままだ。法廷から直接来たのだろう。


「お疲れさまでした。二人とも」


「サージュさんも」


サージュはパスカルの赤い目を見て、何も言わなかった。ただ、ポケットから清潔な布を一枚取り出して、パスカルに渡した。


「顔を拭きなさい。局長代行の部下が、泣き腫らした顔で歩いていては示しがつかない」


パスカルが布を受け取って、丁寧に顔を拭いた。


「ありがとうございます、アンデールさん」


三人で回廊を歩いた。裁判が終わった法廷の方角から、衛兵たちが伯爵を連行していくのが見えた。もう振り返らない。前を向く。



裁判の後、香術局の建て直しに本格的に着手した。


師匠の棚を修繕するだけではなく、新しい棚を作ることにした。銀蓮花のような禁制品の管理体制を見直し、持ち出し記録を二重にする仕組みを導入する。二度と同じことが起きないように。師匠が命をかけて守ろうとした場所を、制度の力でも守る。


パスカルと二人で棚を組み立てた。木材を選び、瓶の大きさに合わせて仕切りを作る。釘を打ち、棚板を水平に合わせ、ラベルの位置を揃える。地味な作業だ。だが、この地味さの中に香術師の仕事がある。師匠の配置を参考にしながらも、新しい工夫を加えた。


「先輩。この棚、師匠の棚より少しだけ高いですね」


「私の方が師匠より背が高いからね。手が届く高さに合わせた」


「師匠は脚立を使ってましたもんね。いつも『背が足りない分は知恵で補え』って」


パスカルが笑った。師匠の話を笑って語れるようになった。悲しみは消えない。だが、悲しみと共に歩く術を、この子は身につけた。


新しい棚にラベルを貼っていく。私の字で。カモミール。ラベンダー。高山セージ。黄金カモミール。


一枚一枚、丁寧に。師匠の字とは違う。角が丸くて、少し大きい。だが、同じ品名が並ぶ。同じ棚に、新しい字で。それが引き継ぐということだ。


パスカルが隣でラベルの糊付けを手伝っている。二人で肩を並べて黙々と作業する。こういう地味で穏やかな時間が、師匠との記憶の中にもたくさんあった。


銀蓮花の欄は空のままだ。管理体制が整うまで、法務局の証拠保管庫に預けてある。いずれ戻す。だが、二度と悪用されない仕組みを作ってから。


夕方、ナターシャが香料庫を訪ねてきた。子どもを連れている。子どもが私を見て手を振った。覚えていてくれたらしい。


「テレーゼさん。報告があって」


「何?」


「コンラートが、今日、宮廷を去りました。追放の期限です」


「……そう」


「隣国に戻るそうです。子どもの養育費については、法務局を通じて送ると約束してくれました。サージュさんが仲介してくれたの」


サージュが、そんなことまでしてくれていたのか。法廷での仕事だけでなく、こういう細やかな調整も黙って引き受けている。


「ナターシャさん。これからどうするの」


「しばらくは宮廷の近くに住みます。この子に教育を受けさせたい。それと、私自身も何か仕事を見つけたい。——テレーゼさん。一つお願いがあるんですけど」


「何でも言って」


「この子に、香りのことを教えてもらえませんか。カモミールの匂いが好きなんです。テレーゼさんの服の匂いを嗅いで、いつも笑うの」


子どもが私を見上げていた。小さな目が好奇心で輝いている。


「……喜んで」


私は子どもの前にカモミールの花弁を一枚差し出した。子どもが小さな手で受け取り、鼻に近づけた。


「いい匂い!」


その笑顔に、胸の奥が温かくなった。師匠が私にカモミールの匂いを教えてくれたように。今度は私が、この子に教える。香りは受け継がれていく。人から人へ。世代を超えて。


ナターシャが微笑んだ。かつてコンラートに騙されていた女性が、今は自分の足で立っている。子どものために。自分のために。


「テレーゼさん。ありがとう。あなたに出会えてよかった」


「私こそ。——ナターシャさんの証言がなければ、裁判は成り立たなかった」


「私は本当のことを言っただけよ」


本当のことを言う。それがどれだけ勇気のいることか。ナターシャ自身が一番よく知っている。帰っていく後ろ姿を見送りながら、私はそう思った。


子どもがナターシャの手を引っ張って振り返り、小さく手を振った。カモミールの花弁を、まだ握っている。


私も手を振り返した。新しい世代が、香りを知る。師匠から私へ、私からこの子へ。香術の知識は、瓶の中に閉じ込められるものではない。人の手から手へ、鼻から鼻へ、伝わっていく。


それだけで、今日は良い日だ。明日も、その次の日も、こうしてそんな地味で穏やかな日が続いていくだろう。それが、私が勝ち取った日常だ。師匠が命をかけて守ろうとした日常を、今度は私が守っていく。


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