第28話 カモミールの約束
翌日の夕方、サージュが香料庫を訪ねてきた。
法服ではなく、普段着だった。黒い上着に白いシャツ。眼鏡は同じだが、全体の印象が柔らかい。法務官ではなく、一人の人間として来たのだと、服装が語っている。
香料庫の入口で一瞬立ち止まった。新しく並べ直された棚を見ている。師匠の瓶と、私が新たに加えた瓶が、一つの棚に共存している。
「いらっしゃい」
私はカモミールの茶を淹れていた。師匠直伝の淹れ方だ。花弁の量は杯一つに対して親指と人差し指でつまめる分量。蒸らす時間は砂時計の半分。蓋をして、蒸気を逃がさない。
香料庫の作業台が、今日だけは茶卓になる。瓶と器具を脇に寄せて、杯を二つ並べた。
「師匠に最初に教わったのが、このお茶の淹れ方だったの。調合の技術よりも先に。『まず、お茶を正しく淹れられるようになりなさい。温度と時間の管理が全ての基本だ』って」
「厳しい方だったんですね」
「厳しかったわ。でも、理由のない厳しさは一度もなかった。全部意味があった。お茶の淹れ方は温度管理の訓練。花弁の選別は観察力の訓練。師匠の教えは全て、香術師として生きていくための土台だった」
サージュは香料庫の椅子に座った。この部屋に来るのは何度目だろう。だが今日は、証拠を持ってくるためでも、打ち合わせのためでもない。ただ——ここにいるために来た。
杯を差し出した。サージュが両手で受け取る。湯気が眼鏡を曇らせた。レンズを拭こうとして、やめた。両手が杯でふさがっている。
「……いい香りですね」
「カモミールは、温度が高すぎると苦みが出る。低すぎると香りが立たない。ちょうどいい温度を見つけるのが難しいの」
「人との距離と同じですね」
サージュの言葉に、少し驚いた。まさかサージュがこういう比喩を使う人だとは思わなかった。法務官としての言葉ではなく、一人の人間としての言葉だ。
「……そうかもしれないわね」
カモミールの香りが香料庫に広がった。師匠が毎日淹れていた匂いだ。この匂いの中で、私は育った。
「ヴァーゲンさん」
「テレーゼでいいわ。もう——ヴァーゲンは使わない。離縁が成立したから」
サージュが一瞬、杯を持つ手を止めた。そしてゆっくりと杯を下ろした。
「……テレーゼさん」
初めて名前で呼ばれた。この人の声で、自分の名前を聞くのは——悪くない。十年間「テレーゼ・ヴァーゲン」だった自分が、今は「テレーゼ」に戻っている。
「サージュさん。お茶の味は?」
サージュが一口飲んだ。考え込むように目を閉じて、開いた。
「八十五点です」
「八十五点です」
「師匠の基準で?」
「いえ。私の基準で。——百点は、次に飲むときのために取っておきます」
私は笑った。サージュが冗談を言うとは。いや、冗談ではないのかもしれない。「次」がある、という約束だ。
◇
パスカルが香料庫に入ってきた。サージュと私が向かい合ってお茶を飲んでいるのを見て、一瞬固まった。二人の間の空気を、この子は敏感に感じ取ったのだろう。
「あ——すみません。邪魔しました——」
踵を返そうとした。
「邪魔じゃないわ。パスカルも飲む?」
「い、いいんですか。お邪魔じゃ……」
「お邪魔じゃないって言ったでしょう。師匠はいつも言ってたわ。『香料庫に鍵をかけるな。人が集まる場所にこそ、良い香りが生まれる』って」
パスカルがおずおずと入ってきた。
杯を三つ並べた。師匠の弟子二人と、法務官一人。香料庫の小さな作業台を囲んで、カモミールの茶を飲む。棚の瓶が夕日の光を反射して、琥珀色に輝いている。
「テレーゼ先輩。ルッツの裁判はいつですか」
「来週。サージュさんが準備を進めてくれている」
「ルッツの罪状は、師匠の殺害、ダフネさんの殺害、侍従長の殺害、法廷テロ。四件です。証拠は十分に揃っています」
サージュが淡々と述べた。お茶を飲みながら仕事の話をする。この人らしい。だが不思議と、嫌ではない。仕事の話ができることが、信頼の証だ。
「僕も手伝えることがあれば言ってください」
パスカルがまっすぐに聞いた。
「ある。ルッツの地下室から押収した素材を、全て分類してほしい。何がどれだけあるか、目録を作る。それが裁判の証拠になる」
パスカルが頷いた。杯を空にして、すぐに立ち上がる。
「やります! ——あの、先輩。サージュさんもゆっくりしていってくださいね」
意味深な笑みを残して、パスカルが出ていった。勘のいい子だ。扉が閉まると、香料庫が急に静かになった。二人分の呼吸と、蝋燭の小さな音だけが聞こえる。
サージュが杯を見つめていた。琥珀色の液面に、ゆらゆらと蝋燭の灯りが映っている。
「……いい弟子ですね」
「師匠が育てた弟子よ。私じゃない」
「あなたも育てています。気づいていないだけで。法廷テロのとき、パスカルが犯人の特徴を正確に報告できたのは、日頃の教育の成果です」
「そうかしら」
「確かです。あの子の観察力は、あなたの背中を見て育ったものです」
サージュの言葉が、静かに胸に落ちた。師匠が育てて、私が引き継いで、パスカルが伸びていく。一人の力ではない。受け継がれ、広がっていくものだ。
窓の外が暗くなっていた。杯の中のカモミールが冷めている。冷めてもなお、かすかに甘い香りがする。
師匠がいつも言っていた。「冷めても香るのが、良いカモミールの証だ」と。
人と人との間にも、同じことが言えるのだろう。派手な言葉がなくても、日々の中で静かに育つものがある。毎日同じ場所で会い、同じ目的のために動き、同じ茶を飲む。その積み重ねが、信頼になり、やがて——別の名前で呼ばれるようになるのかもしれない。
サージュが杯を置いた。空になっている。一滴も残さず飲んでくれた。
サージュが立ち上がった。
「そろそろ失礼します。——ありがとうございました。とても美味しいお茶でした」
「また来て。いつでも」
「はい」
サージュが扉に手をかけた。振り返った。
「テレーゼさん。次は——私が淹れてもいいですか。コーヒーですが」
「……楽しみにしてるわ」
扉が閉まった。サージュの足音が回廊の向こうに消えていく。
私は空の杯を見つめた。三つの杯。師匠の分はない。でも——新しい人が、この場所に来るようになった。
師匠の香料庫は、少しずつ、私の香料庫になりつつある。師匠がいなくなった寂しさは消えない。だが、新しい人がこの場所を訪ねてくれる。
サージュが来てコーヒーを持ってくる。パスカルが来て報告をする。ナターシャの子どもが来てカモミールの花の匂いを嗅ぐ。
香りは人を呼ぶ。人が集まれば、新しい香りが生まれる。それは師匠が教えてくれた大切なことの一つだ。




