第30話 香術師の朝
全てが終わったわけではない。だが、一つの区切りがついた。
伯爵は終身禁錮。ルッツも終身禁錮。ハインツは証人保護の後、減刑の見込みで収監されている。コンラートは宮廷を去った。侍従長の後任は、王太子妃が慎重に人選を進めている。
私は香術局長代行として、日々の業務をこなしている。調合、鑑定、報告書の作成、新人の教育。師匠がやっていたことを、一つずつ引き継いでいく。
最初の頃は、師匠の真似をしているだけだった。同じ手順で調合し、同じ言葉で指示を出し、同じ場所に立つ。
だが少しずつ、自分のやり方が混じり始めている。師匠とは違う配置、師匠とは違う声のかけ方。それは裏切りではない。引き継ぐとは、そういうことだ。
パスカルが正式な香術局員になった。辞令を手にしたとき、この子は泣かなかった。代わりに、深く一礼した。師匠にするように。
見習いの肩書きが外れ、白い前掛けに自分の刺繍を入れる権利を得た。パスカルが選んだのは、ラベンダーの模様だった。
「師匠はカモミールで、先輩もカモミールだから。僕はラベンダーにします。先輩が好きな花だし」
「私が好きなのはカモミールよ。ラベンダーが好きなのはあなたでしょう。ポケットにいつも入れてた」
「……ばれてましたか」
パスカルが照れ笑いをした。乾燥ラベンダーは、もうポケットにはない。代わりに、前掛けの刺繍として、いつもそばにある。不安なときに握りしめるためのものから、誇りとして身につけるものに変わった。
◇
ある朝、香料庫で作業をしていると、サージュが訪ねてきた。法服ではなく、少し改まった平服を着ている。手に陶器の杯を持っている。湯気が立っている。
「約束通り、コーヒーを淹れてきました。法務局の給湯室で苦労しましたが。——淹れ方が正しいか、自信がありませんが」
杯を受け取った。重い。コーヒーの匂いが、カモミールに慣れた鼻に新鮮に飛び込んでくる。苦くて、深い匂い。
一口飲む。確かに苦い。だが、嫌な苦さではない。豆の質が悪くないのだろう。蒸らしが少し長いが、初めてにしては悪くない。
「……八十点」
「八十点。まずまずですね」
「次は八十五点を目指して。——ちなみに師匠はコーヒーは飲まなかったわ。カモミール一筋の人だった」
「では、私が新しい味を持ち込んだということですね」
「そうね。この香料庫に、新しい匂いが一つ増えた」
窓の外に光が差し込んでいた。香料庫の棚に、新しい瓶が並んでいる。師匠の瓶と、私の瓶と、パスカルの瓶。三つの世代の仕事が、一つの棚に収まっている。
サージュが杯を両手で包んでいる。コーヒーの湯気が眼鏡を曇らせたが、拭わずにそのまま飲んでいる。この人の不器用な一面を知ったのは、最近のことだ。
「テレーゼさん。——この香料庫、居心地がいいですね」
「師匠がそう作った場所だから。訪ねる人が落ち着けるように、香りの配置を考えていたの」
「なるほど。道理で、ここに来ると肩の力が抜ける」
サージュが杯を置いた。空になっている。一滴も残さず飲んでくれた。
「そろそろ法務局に戻ります」
サージュが立ち上がりかけて、止まった。窓の外を見ている。中庭のカモミールの苗が、風に揺れていた。
「テレーゼさん」
「何?」
「全てが片付きましたね。伯爵も、ルッツも、侍従長の件も。——ダフネの死も、ようやく正式に裁かれた」
「ええ。長かったわね」
「五年です。私にとっては。あなたにとっては——十年」
十年。コンラートが去ってから数えると、嘘に気づいてからはまだ数ヶ月だ。だが、師匠が記録を残し始めてからは十年。その十年分の真実が、ようやく日の光を浴びた。
「師匠なら、何て言うかしら」
「『終わったら、さっさとお茶を淹れなさい。感傷に浸っている暇があったら手を動かしなさい』——でしょうか」
私は笑った。サージュが師匠の口調を真似するとは。しかも、似ている。
「よく知ってるわね。会ったこともないのに」
「あなたから聞いた話で、十分に伝わっています。——いい師匠だったんですね」
「最高の師匠よ。厳しくて、不愛想で、でも誰よりも優しかった。——だから、この場所を守りたかった」
サージュが頷いた。静かに、深く。
「守れましたよ。あなたは」
その一言が、胸の奥深くに落ちた。温かくて確かな重さだった。
サージュが杯を机に戻した。
「次はもう少し豆を細かく挽いてみます」
「焙煎の温度も少し下げるといいかも。香料と同じで、素材は強火より弱火で引き出す方が深い味になるの」
「香術師の知恵ですね」
「師匠の知恵よ。私はまだ借り物」
サージュが立ち上がった。法務局に戻るのだろう。扉に手をかけて、振り返った。
「コーヒー、八十五点は遠いですか」
「豆を変えれば上がるかも。今度、香料庫にある焙煎用の器具を貸してあげる」
「……香術師は何でも持っていますね」
「道具は師匠の遺産よ。使ってくれる人がいれば、師匠も喜ぶわ」
サージュが出ていった。扉が静かに閉まる。
作業台の上に、検出液の瓶が一つ残っている。裁判のために大量に作った最後の一本だ。もう使う場面はないかもしれない。だが、捨てない。師匠の教え——「備えは日常の中にある」。
瓶を棚に戻した。新しい棚の、一番手前に。いつでも手が届く場所に。
外では、パスカルが中庭でカモミールの苗に水をやっている。師匠が中庭に植えた株から分けた苗だ。根が新しい土に馴染んで、茎がまっすぐ伸び始めている。来年の春には、花が咲くだろう。新しい花が、新しい香りを生む。
私は蒸留器に向き直った。火加減を確認し、ラベンダーの花弁を追加する。蒸気が透明な管の中をゆっくりと流れていく。
抽出液が一滴ずつ、受け瓶に落ちる。一滴一滴が、香りを凝縮している。この作業を、師匠は四十年間、毎日繰り返していた。
師匠がここで毎日やっていたように。私もここで毎日やっていく。調合して、鑑定して、お茶を淹れて。時にはコーヒーを飲んで。
パスカルが中庭から戻ってきた。手に泥がついている。
「先輩。苗が根付きました。来年にはきっと花が咲きます」
「そう。楽しみね」
師匠が植えたカモミールの子どもが、新しい土に根を張った。花はまだ咲いていない。だが、根は張った。根があれば、花は咲く。時間がかかっても、必ず咲く。そう、強く信じている。
窓の外で、パスカルが中庭の花壇に向かって何か話しかけている。師匠に話しかけているのだろう。私もそうする。声には出さないけれど、心の中で。
——新しい一日が、始まる。
師匠が残してくれたものの上に、私たちの毎日が積み重なっていく。カモミールの香りと、隣を歩いてくれる人たちと共に。




