第26話 森の奥の蒸留器
伯爵領南端の森は、予想以上に深かった。
馬車で入れる道は途中で途切れ、そこからは徒歩だ。衛兵六名、サージュ、私。八人の足音が落ち葉を踏む音だけが、森の中に響いている。
木々が高い。陽の光がほとんど届かない。湿った空気に、苔と土の匂いが混じっている。鳥の声がまばらだ。人が入らない森は、動物にとっても居心地が悪いらしい。
私は歩きながら、空気の匂いを確認し続けた。銀蓮花の残り香があれば、調合拠点が近いことを意味する。森の匂いの中から、異質なものを嗅ぎ分ける。
松脂、腐葉土、きのこ、獣の匂い——全て森に属するものだ。それ以外の匂いを探す。師匠に教わった。「自然の中で人工物の匂いを見つけるときは、まず自然の匂いを全て記憶して除外せよ。残ったものが、探しているものだ」。
半刻ほど歩いたところで、鼻が反応した。
森の匂いの下に、かすかに——あの甘い匂い。風に乗って、南西の方角から漂ってくる。木々の枝が風にそよぐたびに、匂いが強くなったり弱くなったりする。
「サージュさん。匂いがする。南西。距離は百歩以内」
「確かですか」
「師匠に鍛えられた鼻よ。間違いない」
サージュが衛兵に指示を出した。三班に分かれる。正面班、裏手班、そして排気口を押さえる班。コンラートの情報では、排気口は岩場に隠れているという。
排気口班の衛兵が、先に迂回して岩場へ向かった。彼らが配置につくまで、正面班は待機する。森の中で息を潜める。風が木々の間を通り抜ける音だけが聞こえる。
待っている間、サージュが小声で言った。
「テレーゼさん。中で毒を使われたら、すぐに退避してください」
「解毒用の調合品がある。大丈夫よ」
「それでも。——無理はしないで。お願いです」
その声に、法務官の冷静さとは別の温度があった。
私は風向きを読んだ。匂いが濃くなっている。近い。
木々の間に、小屋が見えた。
粗末な板壁の小屋だ。屋根が低く、窓が一つだけある。周囲に人の気配はない。しかし、煙突から薄い煙が上がっていた。中に誰かがいる。あるいは、つい先ほどまでいた。
排気口班から合図が来た。配置完了。逃走経路は塞がれた。コンラートの情報が正しかった。
サージュが頷いた。
「行きましょう」
正面班が小屋の扉に近づいた。衛兵が扉を叩く。
「王宮法務局。捜索令状に基づき、立ち入り検査を行う。扉を開けなさい」
返答はない。風の音だけが木々の間を通り抜ける。
衛兵が扉を蹴り開けた。
小屋の中は——生活感があった。机と椅子、壁に棚。棚には空の瓶がいくつか残っている。粗末な寝台。食器が一組。一人で暮らしていた痕跡だ。二十年間、この森の中で。
だが、人間はいない。
床に、蓋のついた地下への入口がある。鉄の取っ手がついた板蓋。持ち上げると、甘い匂いが濃厚に立ち上ってきた。
「地下にいる。精製品を焚いている」
私は懐から検出液と解毒用の調合品を確認した。準備は万全だ。
サージュが衛兵に合図した。
「地下に踏み込みます。排気口は塞がれている。逃げ場はない」
◇
地下室に降りた。
石段が七段。狭い通路。壁から水滴が滴っている。通路の先に、灯りが見えた。蝋燭の灯りだ。電気のない地下で、この男は蝋燭の灯りだけで精製作業を続けていたのだ。
地下室は、伯爵邸のものより広かった。天井が低いが、奥行きがある。蒸留器が三台並び、棚には瓶がぎっしりと詰まっている。壁には何種類もの乾燥した植物が束にして吊るされていた。
空気が甘い。銀蓮花の精製品の匂いが充満している。私はすぐに懐から解毒用の布を取り出し、口元に当てた。衛兵たちにも同じものを配る。
そして——部屋の奥に、男が一人、座っていた。
中肉中背。白髪交じりの髪。右足を投げ出すようにだらりと伸ばしている。引きずる癖のある足だ。手は——確かに荒れていた。指先が黒ずんでいる。
ルッツ・ヴァイラー。二十三年前に香術局を追われた男。師匠と同期の才能を持ちながら、闇に落ちた男。
蒸留器の前に座ったまま、男は私たちを見た。驚いた様子はない。来ることを予想していたのだ。机の上に、蒸留中の液体が入ったフラスコが置いてある。まだ作業の途中だったらしい。
「……香術局の人間か。鼻が利くな。排気口も塞がれているのか。——伯爵の小僧が喋ったか」
男の声はしゃがれていた。
「ルッツ・ヴァイラー。王宮法務局の捜索令状に基づき、身柄を拘束します」
サージュが宣告した。衛兵が男の両脇を固める。ルッツは抵抗しなかった。
私は地下室を観察した。香術師の目で、隅々まで。
蒸留器の中に残った液体。棚の瓶に貼られたラベル——ラベルの字はルッツの筆跡だろう。丁寧な字だ。壁に吊るされた乾燥植物の種類を確認した。高山セージ、トリカブト、銀蓮花の葉。
全てが、精製と毒の調合のための設備だ。ここが、師匠を殺した毒の生まれた場所だ。二十年以上、この地下室で男は腕を磨き続けていた。師匠に追放された技術を、復讐の道具に変えて。
棚の一角に、見覚えのある瓶があった。香料庫から盗まれた銀蓮花の標本品だ。師匠がラベルを貼ったあの瓶。間違いない。
「これは……香料庫のものだ」
私の声が震えた。師匠が教育用に保管していた標本。それがここに運ばれ、毒の原料にされようとしていた。
ルッツが低い声で笑った。
「オーレリアの弟子か。あの女と同じ鼻をしている。——俺を解雇した女の弟子が、俺を捕まえに来るとはな」
「師匠は正しかった。あなたを解雇したのは」
「正しい、か。正しさで飯が食えるか。俺は二十年間、正しさの外側で生きてきた。伯爵が金を出して、俺に居場所をくれた。香術局が捨てた人間を、伯爵が拾った。——それだけの話だ」
ルッツの目には恨みがあった。だが、それだけではない。どこかに——疲労がある。二十年間、闇の中で技術を振るい続けた人間の疲労だ。
私はルッツの目を見た。
「師匠は、あなたのことを最後まで気にかけていたわ。手帖に書いていた。『私に何ができるのだろうか』と」
ルッツの表情が、一瞬だけ揺れた。すぐに元に戻った。だが——見えた。
「連れて行って」
衛兵がルッツを立たせた。男は右足を引きずりながら、地下室を出ていった。石の段を上がる足音が、ゆっくりと遠ざかる。
サージュが私の隣に立った。
「終わりましたね」
「……ええ。これで、師匠を殺した人間は全員捕まった。伯爵、ハインツ、ルッツ。三人の男が、一人の師匠の命を奪った」
地下室の蒸留器が、まだ微かに湯気を立てていた。私はその蒸留器の火を、自分の手で消した。
——師匠。終わりました。あなたの弟子が、あなたを殺した男の火を、自分の手で消しました。




