第25話 香術局長代行
伯爵領に向かう前日、王太子妃から呼び出しを受けた。
応接間に通されると、王太子妃は窓辺に立っていた。花瓶に新しい花が活けてある。侍従長の死後、しばらく枯れたままだった花が、ようやく入れ替えられていた。
「テレーゼ・ヴァーゲン。香術局長代行の職を命じます」
予想していなかった言葉だった。
「殿下。私はまだ二十七歳です。師匠の経験には到底——」
「年齢の話をしているのではないわ。能力と実績の話をしている。あなたは聴聞会で証言し、法廷テロの現場で全員の命を救い、外部調合師の追跡を香術の技術で成功させた。師匠の弟子であること、法廷での証言、法廷テロでの対応。あなたの能力は十分に証明されている」
王太子妃が窓辺から振り返った。
「それに——今の香術局に、他に適任者はいない。空席のまま放置すれば、局の機能が停止する。それは宮廷全体の損失だ」
王太子妃の言葉は事実だった。師匠の死後、香術局は私とパスカルの二人で回している。主任だったハインツは証人保護下にある。他の職員は調合の技術はあっても、局全体の運営を担う経験がない。
「局長代行として、まず二つのことを頼みたい」
王太子妃が指を立てた。
「一つは、侍従長の茶会で使われていた銀蓮花の影響を受けた可能性のある宮廷関係者の検査体制を整えること。長期間にわたって銀蓮花を吸入していた者がいれば、健康への影響が出ているかもしれない」
「二つ目は?」
「香術局の管理体制の見直し。伯爵が利用できた抜け穴を塞ぐこと。禁制品の管理、人事の透明化、外部からの干渉を排除する仕組み」
「承知いたしました、殿下」
頭を下げた。香術局長代行。師匠が四十年間務めた職だ。二十七歳の私には重すぎる肩書きかもしれない。だが、今この場所を空けるわけにはいかない。
「それと——外部の調合師の捜索にも引き続き協力しなさい。あなたの香術の知識がなければ、あの男は捕まえられない」
「はい」
王太子妃が私を見た。その目に、信頼がある。聴聞会で初めて会ったときの値踏みするような目ではない。実績を見て、判断した目だ。
「期待している。——下がってよい」
王太子妃の目が、いつもの冷静さの中に、かすかな期待を宿していた。この人は、私を試している。同時に、信じようとしている。
香術局長代行。二十七歳。師匠が四十年かけて築いた局を、私が引き継ぐ。その重さに、肩が沈む。だが、沈んだまま立ち止まるわけにはいかない。
応接間を出たとき、回廊でサージュが待っていた。壁にもたれるようにして立っている。裁判が終わった後の安堵が、この人の姿勢にもわずかに表れていた。
「聞きました。局長代行。おめでとうございます」
「ありがとう。——でも、まだ代行よ。正式な局長への道は長い」
「オーレリア先生の後を継ぐのは、先生の弟子であるあなた以外にいません。それは宮廷の誰もが認めていることです」
サージュの声は、いつもの淡々とした口調だった。だがその中に、静かな確信がある。
◇
香料庫に戻った。パスカルに伝えると、この子は目を丸くした。
「先輩が局長代行⁉」
「代行よ。正式な局長ではない」
「でも、すごいじゃないですか! 師匠の後を——」
パスカルの目が潤んだ。嬉し泣きなのか、師匠を思い出したのか。おそらく両方だ。
「パスカル。あなたも、これからは見習いじゃない。正式な香術局員として、私を支えてほしい」
パスカルが背筋を伸ばした。
「はい!」
その返事の声は、初めて会ったときとは違う響きだった。師匠が聞いたら、「まだまだだね」と言いながらも、口元が緩むだろう。
局長代行として最初の仕事は、香術局の棚の整理だった。壊されたままの一角を完全に修繕し、新しい保管体制を作る。師匠の瓶の配置は可能な限り再現しつつ、防犯のための施錠を強化した。
棚板を一枚ずつ確認しながら、師匠がどの瓶をどの位置に置いていたか、記憶を辿る。師匠の配置には法則があった。使用頻度の高いものを手前に、危険度の高いものを奥に、季節ごとに入れ替えるものを中段に。その法則を、今度は私が守る番だ。
次に、侍従長の茶会に出席していた貴族たちの検査体制を整えた。銀蓮花の残留影響を調べるための検出液を大量に調合し、希望者全員に提供する。
パスカルが調合を担当し、私が品質を確認する。師匠のレシピを忠実に再現する作業だ。蒸留の温度、混合の順序、静置の時間。全てに意味がある。
「先輩。検出液の色が安定しました。師匠のレシピ通りです」
「よくできたわ。——師匠が見たら、七十点ぐらいはくれるかもね」
「七十点⁉ もっとほしいです」
「師匠は百点を出さない人よ。八十点で褒められたら上出来。——でも、今日のあなたの仕事は八十五点ね」
パスカルが一瞬固まって、それから満面の笑みを浮かべた。そばかすの顔がくしゃりと歪む。師匠のことを語れるようになった。泣くだけじゃなく、笑って思い出せる。それは回復の証だ。
夕方、サージュが香料庫を訪ねてきた。明日の出発の打ち合わせだ。入口で一度立ち止まり、修繕された棚と新しく整理された瓶の列を見回してから入ってきた。
「……綺麗になりましたね」
「パスカルが一生懸命頑張ってくれたの」
「伯爵領南端の森。コンラートの情報通りなら、地下室の排気口は森の中の岩場にある。衛兵を三班に分けて、小屋の正面、裏手、排気口の三方を同時に押さえます」
「私は何をすればいい?」
「ルッツが毒を使った場合の対処です。検出液と、可能であれば中和のための調合品を持参してください」
「わかった。解毒用の調合品も持っていく。銀蓮花の吸入に対する応急処置ができるものを。それと、ルッツの調合の癖を見抜くために、分析用の器具も一式」
「とても頼りにしています」
サージュが頷いた。そして立ち上がりかけて、止まった。
「ヴァーゲンさん。明日が終わったら——約束のお茶、忘れていませんよ」
「忘れてないわ。カモミール、ちゃんと用意してある。師匠が最後に乾燥させた分がまだ少し残ってるの」
「貴重な分を使っていいんですか」
「大切な約束には、大切なものを使うのよ。師匠もそうしていた」
サージュが眼鏡の奥で目を細めた。この人の笑みに一番近い表情だ。
「——では、必ず無事に帰りましょう。二人とも」
その「二人とも」という言葉に、私の名前が含まれている。
「ええ。必ず」
夜の回廊で別れた。サージュの足音が遠ざかっていく。規則的で、迷いのない足音。この音にも、もう慣れた。
宿舎に戻って、荷物を整えた。検出液の小瓶を五本。解毒用の調合品を二種。そして師匠の手帖。懐に入れる。
——明日。師匠を殺した男の隠れ家に踏み込む。




