第24話 師匠が恐れた男
パスカルが師匠の手帖から探し出した記録は、二十三年前のものだった。
香料庫の奥の棚、師匠が「古い記録」と記した引き出しの中にあった。黄ばんだ紙に、若い頃の師匠の筆跡で書かれている。今の端正な字とは違い、少し角張った、勢いのある字だ。二十代の師匠が、どんな人だったのか。この字から想像する。
『ルッツ・ヴァイラー。香術局第三期生。才能は卓越している。特に蒸留と抽出の技術は同期の中で突出しており、私より上かもしれない。しかし、彼には危うさがある。技術を人のためではなく、自分の力のために使おうとする傾向がある。注視が必要』
師匠がまだ若手だった時代の記録だ。ルッツは師匠と同期だった。才能では師匠を上回っていたと、師匠自身が認めている。
次のページに、解雇の経緯が記されていた。
『ルッツの件。銀蓮花の精製品を私的に調合し、闇市場に流していたことが発覚。局長判断で即日解雇処分。二度と香術の道に戻らないと誓約書を書かせた』
その下に、別の日付で追記がある。
『しかし、あの男の腕は確かだ。解雇の日、ルッツは「おまえもいつか後悔する」と言い残した。いつか問題を起こすのではないかと危惧している。——私に何ができるのだろうか』
師匠の危惧は、二十年以上の時を経て現実になった。
「テレーゼ先輩。この人、師匠と同期だったんですね」
パスカルが手帖を覗き込みながら言った。声が少し震えている。師匠を殺した男の名前が、この記録に書かれていた。
「ええ。師匠がずっと警戒していた人間よ。才能がありながら、道を踏み外した」
「でも、二十年以上前に解雇されて、その後は伯爵の下で——」
「伯爵がルッツの技術に目をつけたのでしょう。解雇された香術師は、正規のルートでは生きていけない。伯爵が金と居場所を与えて、自分のために働く道具にした。その卓越した才能を利用したのよ」
「師匠は……知っていたんでしょうか。ルッツが伯爵の下にいることを」
パスカルの問いに、私は言葉を詰まらせた。手帖の記録は解雇時のもので止まっている。その後のルッツの動向については何も書かれていない。だが、師匠が何も気づいていなかったとは思えない。
「わからない。でも、師匠は銀蓮花の検出法を手帖に残していた。毒で殺される可能性を想定していた。もしかしたら——相手がルッツかもしれないと、心のどこかで感じていたのかもしれない」
サージュに報告した。法務局の面会室で、手帖の記録を見せる。
「ルッツ・ヴァイラー。二十三年前に香術局を解雇。以降、伯爵領に居住。伯爵領の住民台帳にも名前がある。——ブルガの機織り工房の顧客名簿にも」
「職業は何と記載されていますか」
「『なし』です。公式には無職。だが伯爵領内で暮らしている以上、何らかの収入がある。伯爵から報酬を受けていたと考えるのが自然です」
「住所は」
「伯爵領南端の集落。森の中に小屋があると台帳に記されています」
サージュが地図を広げた。伯爵領の地形図。南端は深い森に覆われた丘陵地帯だ。街道から外れた場所に集落がいくつかある。
「隠れるには最適な場所です。周囲に人家が少なく、調合の匂いが外に漏れても気づかれない」
「森の中なら、素材の調達も容易ね。野生の植物を採取できる」
「ええ。銀蓮花の自生地は山間部の森林です。伯爵領の南端は、標高がちょうど自生に適した高さです」
私は手帖の記録をもう一度読み直した。師匠の字が、二十三年前の不安を伝えている。「いつか問題を起こすのではないか」——その予感は正しかった。師匠はこの男のことを、ずっと心のどこかで気にかけていたのだ。
「行きましょう。捜索令状は出ている。衛兵を連れて」
◇
出発の準備をしていたとき、予想外の人物が法務局を訪ねてきた。
コンラートだった。
不服申立てが棄却され、追放の裁定が確定した男。法廷の後、宮廷を去る猶予として三日間が与えられている。その三日目の朝に、自らここに来た。
「話がしたい。——テレーゼに」
サージュが私を見た。判断を委ねている。
「聞くわ」
二人で面会室に入った。サージュは隣室で待機している。壁一枚の向こうに、法務官がいる。安全だ。
コンラートは椅子に深く腰を下ろした。以前のように背筋を伸ばしていない。騎士の姿勢を失った男が、そこにいた。目の下に隈がある。眠れていないのだろう。
「ルッツという男のことで来た」
私は驚きを顔に出さなかった。香術師は表情を読む訓練を受けている。逆に、自分の表情を制御する技術も持っている。
「知っているの」
「伯爵の屋敷で会ったことがある。三年前だ。伯爵が『先生』と呼んで、俺たちには近づくなと言っていた。あの男の周りだけ、空気が違った。甘い匂いがした。今にして思えば、銀蓮花だったんだろう」
コンラートが膝の上で拳を握った。
「一度だけ、伯爵の書斎で二人が話しているのを盗み聞いた。——あの男の隠れ家は、伯爵領の南の森の奥にある。ただの小屋じゃない」
「どういうこと」
「地下に部屋がある。伯爵が金を出して造らせた地下室だ。調合のための設備が揃っている。蒸留器も、保管庫も。——俺が盗み聞いたのは、その地下室の排気口の位置についての話だった」
「排気口?」
「地下で精製品を焚くと、煙が出る。それを外に逃がすための穴だ。森の中の岩の裏に出口がある。——もし正面から小屋に踏み込めば、ルッツは地下から排気口を通って逃げるだろう」
コンラートが私の目を見た。あの蒼玉の瞳。十年間、毎日見つめてきたはずの目。だが今のこの目は、嘘をついていない。
「なぜ教えてくれるの」
「……モーリッツ老師のことを、ずっと考えていた。あの人は騎士として最後まで真っ直ぐだった。俺は——そうじゃなかった」
コンラートが立ち上がった。
「これが俺にできる最後のことだ。——テレーゼ。気をつけろ。あの男は、追い詰められたら何をするかわからない」
コンラートが去った。扉が閉まる音が、静かに響いた。あの男の足音が回廊の向こうに消えていく。もう二度と、この宮廷に戻ることはないだろう。
サージュが隣室から入ってきた。全て聞いていたのだろう。表情に変化はないが、手に持った万年筆のキャップが外れている。走り書きでメモを取っていたらしい。
「地下室の排気口。——これで、逃走経路を塞げます」
私は頷いた。コンラートの情報が本物なら、ルッツを確実に捕まえられる。
十年間嘘をつき続けた男が、最後に一つだけ真実を置いていった。その真実が、師匠を殺した男を追い詰める最後の鍵になる。
元夫の最後の贈り物。それが、まさかこういう形になるとは。皮肉なものだ。だが今は、その皮肉に心から感謝している。




