二回目の初めて
「げほっげほっごほっ!!」
アリスとともに船上へ引き上げられた柚葉は、大きく噎せ、四つん這いになって海水を吐き出す。しょっぱいし、苦い、生臭い。気持ち悪い。
「ユズハちゃん、ちょっと横になろうか。身体、きついだろ」
「・・・けほっ・・・・ルナ、さん・・・」
酷く身体が重いのは、服だけじゃなく、身体が水を吸っているからじゃないだろうか。横になった途端に床に広がって吸収されてしまうのではないかと怯えながら、そっと肩を支えるルナに従って身体を横たえる。
全てが横になった風景は一時前とは一変して、閑散と静まり返っていた。壊れた椅子や机、持ち主を失った武器が転がり、床には穴が開いたり、たくさんの血が飛び散っていた。
柚葉はルナが敷いてくれた白衣の上にいる為、血で汚れることはなかったが、覗き込んでくるルナやグレンはところどころに軽い怪我を負って、自分や他人の血を被っていた。
「・・・海賊、は・・・?」
「無事撃退。こちらの死亡者はなし。怪我したのは俺らが切り傷擦り傷くらい」
「そう、ですか・・・・」
よかった、と息を大きく吐くと、また噎せる。口の中と喉の奥が塩っぽい。次に咳をした時は塩でも吐くんじゃないだろうか。
噎せることにさえ体力を削られて息が上がる。ベタベタと顔に張り付く髪の毛を退かすのに力を費やすのがもったいなくて、そのまま幽霊のようになっていると、白い大きな手が代わりに髪を耳にかけてくれる。
割れ物に触るかのような、柔らかい手つき。
「お前、カナヅチで船に乗らずに泳いだ方がマシとか言ってたのか」
「・・・あ・・・、水も滴るいい男・・・」
「しっかりしろ」
褒めたのに額を小突かれた。
アリスは濡れた髪の毛を後ろに追いやり、いつもは見え隠れするくらいの額が全部見え、そのイケメン具合を全開にしていた。繊細な輪郭を水が伝い、顎から柚葉の頬へ落ちる。上着は脱いでいたから無事だが、当たり前にシャツもびっしょりで、引き締められた肢体まで透けている。というか、前のボタン開いてるんですけど。
そういえば柚葉とて濡れているのは髪の毛だけじゃないはずだ。制服は間服だから白が基調となっているし、もしかしなくてもピンクの下着がスッケスケじゃなかろうか。
「脈も弱いし体温が低すぎる。中に運ぼう」
触れられた首筋が、じわりとルナの体温を感じた。ルナが熱いのではなく、柚葉が冷たいのだと、震える身体が教えてくれた。
背中と膝裏に手を添えられ、視界が高くなった。力が抜けきって傾いた頭は、濡れた胸に当たった。
「・・・この香り、・・・アリスさ・・ん」
「・・・・・・」
そういえば横になった時から香っていたなと思えば、濡れていないアリスの上着が柚葉の身体を覆っていたからだった。
そして、もう限界とばかりに、柚葉の意識は闇の中へ落ちていった。
***
柚葉の意識を覚醒させたのは、爽やかな鳥のさえずりではなく、ガヤガヤと騒ぐ人の声だった。
「・・・ん・・・」
急に光が入ってきた視界はぼんやりと霞んでいたが、瞬きを繰り返していくうちに徐々にはっきりしてきた。
見慣れない天井、壁、窓。
ずきりと痛む頭を無視し、鉛のような身体を起こすと、ふわふわのベッドが僅かに軋んだ。
「起きたか」
「・・・アリスさん・・・」
柚葉が動いたのに気が付いて、アリスが読んでいた本を閉じてベッドの際に腰かけた。
「気分は?」
「平気、です」
頬を撫でる彼の親指がくすぐったくて、片目を瞑る。
海の中で掴んでくれた手。
「ここは?」
「港町にある宿屋の一室だ。下が飲み屋らしくてな、煩くて敵わん」
アリスは不機嫌そうに組んだ足に頬杖をついた。必然と傾いた彼の顔は、柚葉を下から覗き込む形になる。真っ直ぐな深紺の瞳が、挑戦的に柚葉を捉えてきた。逸らすことができなさそうな視線をやっとの思いで少しだけ下にずらすと、形のいい薄い唇が目に留まる。
吸い込まれそうな瞳にばかり目が行ってこんなにまじまじと見るのは初めてだった。
水の中、
薄れる意識の中で感じた、唇の感触。
冷たくて、
でも温かくて。
「っ!!」
散らばったパズルが一気に完成したように、柚葉の頭の中にその画がフラッシュバックした。
塞がれる口、入ってくる空気。
塞がれる口、
重なる唇、
「ひぃぃぃっ!」
「ど、どうした?」
突然布団を頭からかぶって丸くなる柚葉に、アリスはびくりと肩を揺らし、片眉を下げた。
いや、分かっている。
分かっているんだ、人命救助だって。
そこに他の意味合いなんて何もないんだって分かってる。
でも、分かっていても、
柚葉にとっては初めての、
「ユズハ?まだ身体冷えてるのか?」
「・・ち、違います・・・、そ、そそそその、アリスさ・・・海の中で助けてくれたのって・・・」
「俺しか濡れていなかっただろうが」
「でででですよね!ありがとうございます!」
そうだ、まずはお礼。
がばりと再び顔を出して深く頭を下げる。勢い余って自分の膝に額をぶつけた。
痛くて、顔が上げられない。
アリスの顔が見れない。
「ユズハ?」
「あ・・・の・・・・、」
額を布団に擦りつけたままで、やっと聞き取れるくらいの声で問うた。
「た、助けてくれた時・・・その、・・・口・・・、」
「あ?」
「その!・・・口、付け・・っ・・・」
やっとの思いでそこまで声に出したのに、対するアリスはしれっとした顔でのたまった。
「ああ、人命救助だ。我慢しろ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「――――・・・で、・・・ですよね」
あまりにも予想していた言葉通りで毒気を抜かれた。
どうやら気にしていたのは柚葉だけらしくて、何だか情けなくなってきた。
「ですよねー・・・」
情けなさ余って何かちょっと怒りさえ芽生えてきた。
助けてくれたのは感謝しかないが、花も恥じらう乙女の初接吻を奪っておいて、その機械的な返事はないだろう。そりゃあそれだけのイケメンならばキスの一つや二つ、三つや四つ、そこらへんに配り散らかしているのだろうが。
恨めしそうな柚葉の視線に気付いたのか、アリスがすっと顎に手を添えて顔を近付けてきた。
再び紺の瞳に捕まってしまう。
すっと細められた目は、少し弧を描く口元と共に妖艶な笑みを施した。
「――――何、もう一回?」
いつもより少しだけ低い声が、砂吐くほど甘く鼓膜を揺らす。
「―――っ!!!!」
沸騰した血が一気に頭まで駆け昇り、柚葉の顔は熟した果実のように真っ赤に染まる。
身体が冷えているどころか、湯気が出てきそうな程熱い。
「それに、初めてじゃないだろ」
「・・・・え?」
唐突なアリスの一言に、噴き出した汗が一気に冷えていった。
体温の急激な変化で風邪でも引きそうだ。
「・・・初めて・・・じゃ、ない・・・って・・・?」
きょとん、とする柚葉に、アリスは呆れたような、諦めたようなため息を漏らした後、ピン、と柚葉の額を弾いた。
「覚えてないなら別にいいよ」
「え?!」
アリスはそれだけ言って答えてはくれないが、柚葉の頭の中は大混乱だ。
覚えてないとは一体何なんだ。
他人の記憶はあるのに、自分の記憶はなくしているのか。
柚葉の知らないうちに貞操を奪われてしまったとでもいうのだろうか。
「えーーーーーっっ!??!?」
うっせぇな、とアリスの呟きが無感動に漏れた。




