現れたタレ目
間もなくして、海面に太陽の光がオレンジ色に輝くようになった。数刻も経っていないのだが、海の上は常に状態が変わっていくものだ。
「少し荒れてきたな。ユズハ、そろそろ戻っ・・・」
「うううええええ」
「・・・・・・・」
アリスに、ま、そうなるわな、という顔をされた。
「ほら、戻るぞ」
「待って、待ってくださいアリスさんんん・・・」
そんなにスタスタと行かれても、柚葉は目眩が酷くて真っ直ぐ歩けない。さらに徐々に激しくなる揺れに、平衡感覚を遊ばれていく。
「っ、わ!」
「!・・・、何やって・・・」
ついにはバランスを失い、どしゃっと崩れてしまった柚葉に、歩み寄ったアリスよりも早く、上から別の男の声がした。
「大丈夫?」
「・・・え?」
手を差し伸べてくるその人物を見上げると、タレ目の甘い顔立ちした、若めの青年だった。恐らくはアリスよりは年上であろうが、その魅惑的な顔立ちのせいで、何歳かは見当もつかない。
「あ、はい・・・ありがとうございます」
「っと・・・君、随分顔色悪いけど、船酔いかな?」
柚葉を引き上げながら自然な動作で顎を持ち上げられる。決していやらしくない手つきだ。慣れているものだと確信する。
「あ、はい・・・そうですけど、何か?」
「いや、大した意味はないんだ。辛そうだったからつい、ね」
胡散臭い笑みを浮かべた男はがっちり柚葉の腰をホールドして、離れようにも離れられない。彼が支えてくれているからこの揺れでも立っていられるのだが。
そこにアリスが嫌悪感たっぷりの顔をしながら鋭い眼差しを送ってくるものだから、柚葉はもうどこを見ていいか分からない。
「もういいだろ、離れろ」
「そんな怖い顔しなくったって、俺は彼女を助けたかっただけだよ。放っておいたのは君だろ?」
「お前には関係ない」
「関係ないかどうかは君が決めることじゃない」
「・・・何?」
男がすぐ横でふっと笑った気がした。それは呆れのような、嘲笑のような、そんな馬鹿にしたような笑い。
それにどんな意味があるのか、考えてみても、所詮他人のことだ。分かるわけはないし、柚葉は今それどころではない。
「あ、・・・あの・・・」
「ん?」
「とりあえず中行きませんかうえええええええええ」
「うえええええ?!?!!」
アリスと現れた男の睨み合いバトルは、柚葉によって急激に冷えていった。
「うう・・・ルナさん、誠に申し訳ございませんでした・・・・」
柚葉は枕の中へ顔をうずめながら誠心誠意謝り倒して、十回目となる謝罪を力ない声で漏らした。
再び戻ってきたベッドは、柚葉達が借りた元の部屋のものではない。そこより近い自分の部屋にとりあえず行こうと被害者の男、ルナ=メルヴィナからの申し出で、この部屋にいるのだが、どうもここは客室ではないようだ。
小綺麗にされた棚、清潔な布類や小物は几帳面に整理整頓されている。部屋一帯に広がる鼻を突く消毒液の匂い。学校でも出入口に近いところに配置されているそれ。
「保健室・・・?」
「医務室ね。ここ船だから」
「ルナさんは、お医者さんですか?」
着替えたルナはシミ一つない真っ白な白衣を羽織っていた。アリスと同じくらいか、少し高いくらいの身長のせいか、よく似合っている。
「そ。この船の船医。だからユズハちゃんみたいな人は日常茶飯事だから気にしないでいいよ」
「申し訳ない・・・」
ははは、と笑うルナはここへ柚葉を運んだ後、自分が着替えるよりも先に手早く柚葉への処置を済ました。手際の良さから船医だというのは間違いないだろう。
「それは全然大丈夫なんだけど、俺はこの人の信用のない目の方が気になるね」
「船医だろ?別に疑ってねぇよ」
「わあ、疑ってしかいない」
アリスの目は、じとりとルナを捉えて離さない。柚葉を処置している間も、的確なルナの指示に従ってはいたが、警戒は緩めていないようだった。それを受け流すようなルナの態度も信用できないと言っても仕方ないのだろう。
「そんなに気になるんなら調べたらいいよ。何も出てこないと思うけど」
「別にいいよ。何か出てくるとは思っていない」
「ま、そうだね」
柔らかい言葉ながら、掴みどころのないルナに調子を狂わされる。変なカマをかけても引っかかるとは思えないと悟ったのか、アリスは諦めたようにルナから目線を外した。
それを確認すると、満足したのか、ルナは柚葉が横になるベッドの縁に腰かけて、長い足を組んだ。そして絵にかいたような綺麗な手を柚葉の方へ差し出すと、重ねるように促した。
「な、何を・・・?」
「大丈夫、治療だから」
しばらくは渋っていた柚葉だが、ニコニコと笑みを絶やさないルナに折れ、恐る恐る手を重ねた。一回りほど大きな手が、軽く握ってきたかと思うと、そこに淡い緑色の光がふわりと灯った。
アリスがガタリと椅子から立ち上がり、剣を抜こうとしたところを、ルナはもう片方の手ですっと制止した。
「治療だって言っただろ。大人しく座ってろって」
「・・・・・・」
眉間の皴を深くしたアリスは、警戒心を強めながらも剣から手を離したが、椅子に座ろうとはしない。いつでも斬りかかれる戦闘態勢だ。
アリスの殺気がピリピリと充満する中、ルナは平然な顔をして柚葉が重ねた手に集中をしている。やがて光が消えると、ふっと息をついておしまい、と握る手を緩めた。
「どう?少しは船酔い、よくなったんじゃないかな?」
「・・・・あ、」
本当だ。
確かに薬を飲んだ時より遥かに回復している。眩暈も気持ち悪さも殆どない。
明らかに今ルナが施した”治療”の効果だとは分かったが、見たところあれは魔法だった。治癒魔法だったとして、船酔いは魔法では治せないはずだが。
「船酔いってのは要は耳のカタツムリが暴れてるのに身体が対応できなくなってるってこと。治癒魔法は確かに病気には効かないけど、船酔いは病気ではないでしょ?」
「・・・だが怪我でもないだろ」
「そう。でもあくまで『怪我』として捉えたら話は早い。アリス、君、魔法で止血はできるだろ?それと一緒だ。カタツムリが暴れるのを怪我とするならば、それを治癒魔法で治してやればいい」
カタツムリとはもしや三半規管のことか。
そうか、ここは異世界で、乗り物酔いの原因や対策は一般的に知られていないのかもしれない。先程飲んだ薬も、ホウライマサシの店独自の物で、この世界に元々あったものではないという。
その中でルナはこの答えに辿り着いたとでもいうのだろうか。
「理屈は分かるが、それだと原因が分かれば病気も治せると言っているように聞こえるが?」
「当たらずも遠からず。ご存じの通り、魔法で無から有は作り出せない。例えば貧血の人を治すのは無理だね。魔法で血を作ることはできないから」
「・・・なるほどな。ならば、それをやろうとするとそれ相応の知識と技術が必要となってくると思うが」
この時点で既に柚葉にはチンプンカンプンだ。ただ、ルナが素人ではできやしないことを成し遂げているということだけは何となく分かった。
ルナは探るようなアリスの目に、今まで通りの笑みを浮かべて今まで通りの声色で言った。
「言っただろ、俺は医者だよ」
なのに、その一言は嫌に重々しく響いた。




