選んだもの
宿の外、ドアのすぐ横には、壁に背中を預けたハンナが緊張の面持ちでそわそわと立っていた。先程より少し可愛らしい服に着替えて、薄ら紅を差している。こちらに気付いていないのか、髪を弄る横顔に声をかけた。
「ハンナちゃん」
「・・・っ!グレンさん!来て下さった・・・!」
「はは、そりゃあ女の子のお誘いを無下にするようなことは俺には出来ないよ。殿下と違ってね」
「あ、ありがとうございますっ」
冗談めかしていう言葉も、今の彼女にはあまり効果はないようだ。緊張と興奮で、口を動かすのが精一杯だという顔をしている。
「・・・それじゃ、行こうか」
「はっ、はい!」
素直に可愛いと思う。
ただ、グレンにはやはり彼女の気持ちには応えられない。
アリスのように、将来を誓った相手がいるわけでも、想い人がいるわけでもない。もしいるとしたら、それはアステリアだ。
────いや、アリス=ルヴィンだ。
国に仕えるものとして、騎士として、国に、彼に、忠誠を誓った。
恋愛をする事が悪いことだとは思わない。心を寄せる人がいてもいいと思っている。
ただ、今はその時ではないと思っているだけだ。
ハンナには悲しませることしかできない。
「アリスさん、行きましょーよー」
「しつこい。行かんっつってんだろ」
「アリスさんこそ頑固ですね。私の頭とどちらが硬いか勝負します?」
柚葉がアリスの腕を引っ張り続けてどれくらい経っただろうか。もちろん、柚葉の力ではアリスなどびくともしないのだが、こうも延々と引っ付いてられるのは、アリスもいい加減鬱陶しくなったらしい。
「だから、病み上がりは大人しくしてろ」
「息抜きですよ!心も病んじゃうと身体も元気にはなりません。ね?」
「いーかーなーいー」
柚葉の頭を片手で遠ざけながら本に目を落とす。ちなみにこの本はこの宿にあった物だ。もちろんこちらの世界の文字で書かれてあるため、柚葉には読めやしない。つまり、時間を潰せるものがないのだ。寝るにはまだ早い、話し相手のグレンはいない、置いてある本は読めない。
「砂漠抜けたらちゃんと休むって言ってたくせに、昨日ちゃんと寝てないだろ。早い時間でも寝てろよ」
「むぅ・・・」
ぱたんと本を閉じて、アリスの指が柚葉の眉間を押さえる。言っていることがもっともすぎて返す言葉がない。アリスが意地悪で言っているわけではないと分かっている。分かりにくいが、柚葉のことを思って言っているのだ。それに、断らなければならない理由があるのだ。
「・・・そっか。私と二人じゃまずいですよね」
「は?」
妙に納得した顔をしてふい、と目を逸らせば、柚葉はアリスの横から立ち上がってベッドへ向かった。バフリとベッド際に腰を下ろす。
「すみません、お誘いして」
「・・・待て、何を謝っている?」
「何をって・・・許嫁がいる人を夜に誘うなんてことしたら、浮気もいいとこでしょ?危なかった」
柚葉はほっと胸を撫で下ろす。浮気現場を見られた誰かがテティへ知らせないとも限らない。本人達に浮気の意思はなくとも、そういうものは尾ヒレも胸ビレも背ビレもくっついて広まるものだ。
そんなものがテティの耳に入った暁には、免れていた打首が今度こそ言い渡される。国の情勢に関わる縁談に水を差すとは何事か、と。
「考えたら、ハンナさんがもし本当にアリスさんを誘っていたら勧めてる場合じゃなかったですよね」
危なくハンナにも柚葉と同じ罪を着せるところだった。
「大人しく寝ることにしま───」
「許嫁な、」
「はい?」
布団に足を入れて肩まで被ろうとした手を、いつの間にかすぐ側まで来ていたアリスの手に掴まれる。
「あれ、破棄されたから」
「ああ、そうで・・・・・・・・・はい?」
「テティは許嫁でも何でもない」
「はい?」
「聞こえなかったか?」
いや、ちゃんと聞こえている。
聞こえているから聞き返したのだ。
今、なんと?
「は、は・・・き・・・?」
それは、つまり、その、
「アリスさん・・・振られ、」
「違うわ阿呆」
ペチリと額を手のひらで弾かれる。
痛いが、お陰でアリスの言葉の意味をようやく理解できてきた。
「じゃ、じゃあ、アリスさんの方から・・・?」
「いや?元々、俺たちは了承した覚えもないからな。国の外交官達が勝手に決めたことで、契約書にも本人達の同意は印していない」
「でも、破棄しちゃってその外交官達は大丈夫なんですか?」
「まあ、テティの親父が何とでもするだろう。その為にわざわざ直接会いに行ったんだからな」
「え?じゃあ、あの時アリスさんが挨拶に行ったのって、それもあったってことですか?」
「そういうこと」
城に立ち寄った大半の目的は、許婚の契約を破棄してもらうことであった。
カリナ国は跡継ぎに恵まれなかった。国を存続していくには婿養子を取るしか方法はなかったのだが、カリナ国は元々アステリア国から独立した国。それも大昔の話だ。婿養子に来てくれる人材がいるのならばそれに越したことはないのだが、あえてカリナ国をこのまま独立させておく理由もなかった。アステリア国とは友好な関係であるし、この際アステリア国へと戻っても何の支障もなかったため、アリスとテティが婚約することで大義名分を作ろうとしていたのだ。
「久々に陛下の前に顔を出したからな。ちょうどいいタイミングだと思ったんだ。カリナ国民はそもそもアステリアへ戻るのを拒んでいる者はそういない。俺らの契約を取り交わした意味は最初からなかったんだよ」
「・・・・でも、」
柚葉の手は、シーツを皴が広範囲に寄るまでぎゅっと握りしめた。
「でも、それでいいんですか?」
「何が」
自分の身に起こったことのように眉を寄せる柚葉を、アリスは不思議そうに見返した。
「二人の気持ちはどうなるんです?」
許婚として、いやそうでなくても、幼いころから一緒にいた二人だ。国の事情がなくても、結ばれていたのかもしれない。同意はなかったかもしれないが、今までお互い認めていたから許婚として過ごしてきたのだ。二人の雰囲気は、認め合っている雰囲気だった。
「どうって・・・どうもこうもないだろ。今まで通りだ」
「今まで通りなら、何で許婚をやめたんですか?それは、今まで通りとは言わないです」
「待て、何でお前がそんなに必死になる?関係ないだろ」
「関係な――・・・っ、いけど・・・」
関係ない。
そうだ。
アリスに許嫁がいようがいまいが、柚葉には全く関係ない。異世界の国事情なんて関わって得するものではないのだ。
口を出すべきではないと分かっているのだ。
だが、どうしてもテティの顔が脳裏をよぎる。
アリスのことを話す時の朗らかな、だが恥ずかしそうな表情。アリスと話す時だけ少し高くなる声、朱に染まる頬。心配するアリスの声に、眉を下げて微笑む姿は、どうにもならない自分の身体が歯がゆいのだ。
そんな、本人達以外は誰にでも分かるような恋心を抱く少女は、政で左右されることを、今頃どう思っているのだろうか。
「・・・・アリスさんは、テティさんのことをどう思っていたんですか・・・?」
「・・・・・・」
関係ないけど。
それはどうしても聞きたくて、柚葉は自分の手を掴むアリスの手を上から握り返した。
真っ直ぐ瞳を捉えてくる柚葉の目に耐え切れなくなったように、アリスは不自然な動きで目を床へ移した。
「別に、普通、」
「っ!」
「―――・・・ではなかったかもな。何か特別な感情があったのは確かだ」
アリスは小さくはぁ、と諦めたため息を漏らすと、持ちっぱなしだった本をサイドテーブルへ置いた。空いてしまった右手は行き場を失ってしばらく彷徨っていたが、やがて自分の脚の上に落ち着いた。
「特別な、」
「そりゃそうだろ。物心つく前から周りにきゃっきゃと付き纏い、その頃からあのキラキラした瞳は今までずっと変わっていない。許婚としての好意を抱かれていたわけじゃなかったとしても、とても嫌悪とは言い難い感情を寄せられていれば、いくら俺でも考える」
アリスの少し伏せられた目元を見たら、心の隅が知りたかった何かを掴んだような気がした。
「言っとくがテティはしょっちゅう好きだと連呼していたから、あいつの気持ちは知っていたからな?」
「あ、言ってそうですね」
テティは控えめだが、自分の気持ちははっきり口にしそうだ。愛情だって例外ではない。
「知っていたから取り止めたんだよ」
「え?」
アリスが立ち上がると、ベッドのスプリングがギシリと軋んだ。祭りが始まったのか、雑多な音がアリスがカーテンを開けただけで広がってくる。少し遠くに不自然に明るい一帯があるが、そこで祭りが行われているのであろう。
「仮にあのまま結婚したところで、それこそテティの気持ちはどうなる?」
「あ・・・」
「政が関わった結婚なんて、例え気持ちがあるものだとしても、いつまでも”国政上の婚約”というものが付いて回ってくる。相手を思う気持ちがある程それは重くのしかかってくるものだ」
こんなに無愛想で、意地悪で、近寄りがたそうな王子様が何故国民に愛されているのか。”坊ちゃん”と呼ばれ、慕われているのは何故か。柚葉の中で散らかって分かっていたことが、整理整頓されて並べられていく。
彼は不特定多数の”ぼんやりした何か”は気にしない。興味がないわけではなくて、それが集約されたものを、本当に大事なことを、無意識に見出しているのだ。
「じゃあ、テティさんは、それは全部分かっていて・・・」
「さあな。分かっていたかどうかはともかく、『これで皆さんと正々堂々と勝負できます』とは言っていたな」
「っ、はは、テティさんらしい」
その時の彼女はさぞ勇敢な顔つきをしていたことだろう。想像に容易い。恋する乙女は強くなれるのだ。
「じゃあ、アリスさんとテティさんはこれからまた一から恋人生活を楽しまれるんですね」
「・・・・は?」
「・・・・え?」
目的もなく外を眺めていたアリスの顔が、驚いた表情とともに柚葉に向けられた。
許婚の話は一旦白紙、一から健全なお付き合いを始めましょ、ということではなかったのだろうか。
「何で?」
「いや、何でって、今の話、そういうことなんじゃないですか?」
「・・・・何でそうなる」
アリスの目から少し色が失われた気がした。
「え、だってテティさんはアリスさんが好きで、アリスさんも・・・テティさんを特別だと思っていて・・・それで、」
だから、想いあっているということだから。
頭の中を整理していく為の柚葉の言葉は、自分でも分からぬ間に小さくなっていく。
何故か、鳩尾の辺りをきゅっと掴まれたような感覚。そういえば夕食がまだだ。空腹に耐えかねて腹の虫が騒いでいるのだろうか。
「あのな、」
アリスの呆れた声が、柚葉の思考を遮った。
「特別だとは言ったが、何もそれが恋愛感情だとは言ってねぇだろ」
「・・・・・・え?」
胃を押さえようとした手が止まる。
「例えばだ。話したこともないただの顔見知りと、小さい頃からずっと一緒にいる幼馴染、どちらかが遠くへ行くとしたら、どっちが寂しい?」
「そりゃあ幼馴染でしょうね」
「そう。そういう”特別”だよ。付き合いが長すぎて、全くとは言いづらくなったが、テティに恋愛感情はないし、それはテティも知っている」
「へ?」
文字通り柚葉は目を丸くした。
散々好きな人とせっかくの許婚関係を白紙にされて辛かろう、想い人を自分から遠ざけてしまう気持ちは考えるだけでいたたまれないと、炎症を起こしていた胸が急激に冷やされていく。
「だからテティも”正々堂々と勝負”なんて言ったんだろ?」
「は・・・・へぇ?・・・え・・・?」
漏れ出る声が息と重なって音にならない。感情が頭に追いつかないし、頭が感情に追いつかない。
「じゃあ、テティさんは・・・」
「まあ、今の所片想いってやつだな」
こ、こいつ、真綿で包むように扱わなければならない乙女心を、こんなよくある症状とでもいうように吐き捨てるなんて、これだからモテる奴はいけ好かない。
「ま!っ、テティさん、こんな血も涙もない男、やめた方がいいですよ!」
「誰に向かって言ってる!お前が訊くから答えただけだろうが!」
「アリスさん一見怖そうだけど、ほんとはちゃんと優しい人で、だけどやっぱり無慈悲な人だから、騙されて好きになっちゃう人は可哀そう!」
「騙されてってなんだ。誰が可哀そうか!」
「それでそれで、アリスさんに好かれる人は、きっとそんなアリスさんの真意を分からないでいる、素直で真っ直ぐでいたいけな真っ白けっけな純粋無垢な女の子なんだ!ああ心が痛む!」
「お前な・・・!」
「!」
片膝をベッドに乗り上げ、距離を詰めたアリスの手が、柚葉の両頬を鷲掴みにする。唇が飛び出た不細工な顔になる柚葉に対して、アリスは相変わらずの飛びつきたいほどの美貌だ。
「―――・・・人の気も知らないで」
「・・・はひ・・・?」
低く呻くような声と共に一瞬険しく眇められた目は、瞬きした瞬間に元の感情の読めないものに戻っていた。
何の話か全く理解できず、とりあえず沈黙を紛らわすように瞬きを繰り返していると、頬が解放された。歯が当たっていた内側が痛い。
アリスはベッドから足を下ろすと、柚葉にその手を伸ばした。
「・・・?・・・・わん!」
「お手じゃない」
「・・・じゃあ・・・な、んでしょう?」
「行くんだろ、祭り」




