第8話_モバイルバッテリーの死
南鳥島での泥の採掘から一年余り――年が改まり、プロジェクト開始から二年目の冬を迎えた東京。
都内のIT企業に勤める二十五歳の会社員・遠藤蓮の朝は、いつもの絶望から始まった。
「うわ……最悪だ」
目覚ましのアラームを止めるために手を伸ばしたスマートフォンの画面。そこに表示されていたバッテリー残量は、無慈悲な『4%』だった。昨夜、充電ケーブルの端子が緩んでいて、給電されていなかったのだ。
出勤まであと十五分。
普段なら、重さ三百グラムもあるレンガのような大容量モバイルバッテリーを鞄に放り込み、移動中の電車内でコードを繋ぎながら、発熱するスマホを鬱陶しく握りしめる羽目になる。カフェに入れば、まず探すのは「コンセント席」だ。
だが、今の遠藤は違った。
先週末、国内大手通信キャリアから電撃発売された新型国産スマートフォン『SOLA』に機種変更したばかりだったからだ。
「そういえば……あの機能、本当なのかな」
半信半疑のまま、遠藤は付属の専用急速充電プラグをコンセントに差し込み、スマホに繋いだ。
画面に、青い稲妻のグラフィックとともに、見慣れないメーターが現れる。
ピピッ。
『超急速固体充電モード:接続完了』
遠藤が洗面所へ行き、顔を洗って歯を磨く。時間にすれば、わずか三分ほどだ。
タオルで顔を拭きながら部屋に戻り、何気なくスマホの画面を覗き込んだ遠藤は、思わず持っていた歯ブラシを床に落としそうになった。
「……は? うそだろ?」
画面の中央に浮かび上がっていた数字は――『88%』だった。
壊れているのかと思い、プラグを抜いて再起動してみる。やはり八十八パーセントのままだ。本体を触ってみても、ほんのり人肌程度に温かいだけで、昔のスマホのような火傷しそうな熱暴走など微塵も起きていない。
「三分で……八十パーセント以上増えた……?」
呆然としながらスーツに着替え、鞄を手にする。
いつもなら鞄の底で文鎮のように重かったモバイルバッテリー。遠藤はそれを手元に引き寄せ、数秒迷った後――机の引き出しの中に放り込んだ。
「……いらないか、これ」
その日の遠藤の日常は、驚愕の連続だった。
満員電車の中で動画をストリーミング再生し、昼休みには重い3Dグラフィックのゲームを小一時間プレイした。外回りの営業中にはマップアプリを起動しっぱなしで歩き回り、顧客との長電話を何本もこなした。
従来のリチウムイオン電池なら、午後二時の時点で残量二十パーセントを切り、慌てて充電器を探していたはずの過酷な使い方だ。
だが、退勤時の午後七時。
駅のホームで画面を確認した遠藤は、目を疑った。
『バッテリー残量:76%』
「減らねえ……。全然減らねえよ、何だこれ……!」
薄さはわずか六ミリ、重さは百三十グラム。ポケットに入れていることすら忘れる軽さなのに、まるで原子力電池でも積んでいるかのように粘り強く電力を供給し続ける。
帰りの電車内、遠藤が何気なくSNSを開くと、タイムラインはすでに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
『SOLAのバッテリー、マジで異常。朝三分充電しただけで丸一日余裕で持ったんだが』
『カフェでコンセント席探す癖が抜けなくて店員さんに苦笑いされたw もう充電器持ち歩くのやめるわ』
『モバイルバッテリー業界、これ完全に終わっただろ……』
『【検証】充電器どこやったか忘れて三日間放置してみた結果→まだ65%残ってて草』
『ゲーム何時間やっても全然熱くならないの最高すぎる。手汗かかない』
「モバイルバッテリーの死」というワードが、トレンドの一位を独走していた。
家電量販店の店頭では、SOLAの当日販売分を求める客が長蛇の列を作り、ネットショップの在庫は数分で蒸発した。
これまでのスマートフォンは、高性能なCPUを積んでも、美しい有機EL画面を積んでも、常に「バッテリーの持ち」という足枷に縛られていた。夕方になると画面の輝度を落とし、省電力モードにし、モバイルバッテリーという重い鎖を繋いで歩くのが、現代人の「当たり前」だったのだ。
その当たり前のストレスが、一瞬で消滅した。
日常の些細な解放感。だがそれは、国民全体で見れば、何億時間もの無駄な心配とストレスの消滅を意味していた。
その爆発的な反響を、経産省の執務室のモニターで見ていた榛名創は、静かに安堵の息を漏らした。
コンコン。
執務室のドアが、ノックもそこそこに勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、日本を代表する自動車メーカー『トヨミ自動車』の専務取締役兼車両開発本部長・村岡だった。背広の襟を乱し、肩で息をしている。
「榛名さん! いるんだろう!」
「村岡専務、どうされました? そんなに血相を変えて」
村岡は榛名のデスクに両手をバンと叩きつけると、自前のSOLAを突き出した。画面にはバッテリー残量九十九パーセントの文字。
「これだ! うちの電子技術研究所でこのスマホを即日分解してバッテリーセルを分析させてもらった! ……常識外れだ! こんな高密度の全固体セルを、すでに何百万個も量産できているというのは本当なのか!?」
「ええ。大日本成版の輪転コーティングラインが、毎日ものすごい勢いで刷り上げていますよ」
「頼む、榛名さん!」
プライドの高い天下の巨大自動車メーカーの重鎮が、榛名の手を両手で握りしめ、目を血走らせて頭を下げた。
「あのセルを、車載用に回してくれ! 大陸勢や米国の新興メーカーにEVで周回遅れだと叩かれ続けて、うちの現場はずっと煮え湯を飲まされてきたんだ! あの電池さえあれば……うちの車は、世界中のEVを全部ゴミ箱送りにできる!」
榛名はデスクの引き出しを開け、一冊の分厚い青焼きの設計図を取り出した。
「待ってましたよ、村岡専務」
榛名の口元に、不敵な笑みが広がった。
「スマホの次は、クルマです。世界中のEV懐疑派を黙らせに行きましょう」
南鳥島での泥の採掘から一年余り――年が改まり、プロジェクト開始から二年目の冬を迎えた東京。
都内のIT企業に勤める二十五歳の会社員・遠藤蓮の朝は、いつもの絶望から始まった。
「うわ……最悪だ」
目覚ましのアラームを止めるために手を伸ばしたスマートフォンの画面。そこに表示されていたバッテリー残量は、無慈悲な『4%』だった。昨夜、充電ケーブルの端子が緩んでいて、給電されていなかったのだ。
出勤まであと十五分。
普段なら、重さ三百グラムもあるレンガのような大容量モバイルバッテリーを鞄に放り込み、移動中の電車内でコードを繋ぎながら、発熱するスマホを鬱陶しく握りしめる羽目になる。カフェに入れば、まず探すのは「コンセント席」だ。
だが、今の遠藤は違った。
先週末、国内大手通信キャリアから電撃発売された新型国産スマートフォン『SOLA』に機種変更したばかりだったからだ。
「そういえば……あの機能、本当なのかな」
半信半疑のまま、遠藤は付属の専用急速充電プラグをコンセントに差し込み、スマホに繋いだ。
画面に、青い稲妻のグラフィックとともに、見慣れないメーターが現れる。
ピピッ。
『超急速固体充電モード:接続完了』
遠藤が洗面所へ行き、顔を洗って歯を磨く。時間にすれば、わずか三分ほどだ。
タオルで顔を拭きながら部屋に戻り、何気なくスマホの画面を覗き込んだ遠藤は、思わず持っていた歯ブラシを床に落としそうになった。
「……は? うそだろ?」
画面の中央に浮かび上がっていた数字は――『88%』だった。
壊れているのかと思い、プラグを抜いて再起動してみる。やはり八十八パーセントのままだ。本体を触ってみても、ほんのり人肌程度に温かいだけで、昔のスマホのような火傷しそうな熱暴走など微塵も起きていない。
「三分で……八十パーセント以上増えた……?」
呆然としながらスーツに着替え、鞄を手にする。
いつもなら鞄の底で文鎮のように重かったモバイルバッテリー。遠藤はそれを手元に引き寄せ、数秒迷った後――机の引き出しの中に放り込んだ。
「……いらないか、これ」
その日の遠藤の日常は、驚愕の連続だった。
満員電車の中で動画をストリーミング再生し、昼休みには重い3Dグラフィックのゲームを小一時間プレイした。外回りの営業中にはマップアプリを起動しっぱなしで歩き回り、顧客との長電話を何本もこなした。
従来のリチウムイオン電池なら、午後二時の時点で残量二十パーセントを切り、慌てて充電器を探していたはずの過酷な使い方だ。
だが、退勤時の午後七時。
駅のホームで画面を確認した遠藤は、目を疑った。
『バッテリー残量:76%』
「減らねえ……。全然減らねえよ、何だこれ……!」
薄さはわずか六ミリ、重さは百三十グラム。ポケットに入れていることすら忘れる軽さなのに、まるで原子力電池でも積んでいるかのように粘り強く電力を供給し続ける。
帰りの電車内、遠藤が何気なくSNSを開くと、タイムラインはすでに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
『SOLAのバッテリー、マジで異常。朝三分充電しただけで丸一日余裕で持ったんだが』
『カフェでコンセント席探す癖が抜けなくて店員さんに苦笑いされたw もう充電器持ち歩くのやめるわ』
『モバイルバッテリー業界、これ完全に終わっただろ……』
『【検証】充電器どこやったか忘れて三日間放置してみた結果→まだ65%残ってて草』
『ゲーム何時間やっても全然熱くならないの最高すぎる。手汗かかない』
「モバイルバッテリーの死」というワードが、トレンドの一位を独走していた。
家電量販店の店頭では、SOLAの当日販売分を求める客が長蛇の列を作り、ネットショップの在庫は数分で蒸発した。
これまでのスマートフォンは、高性能なCPUを積んでも、美しい有機EL画面を積んでも、常に「バッテリーの持ち」という足枷に縛られていた。夕方になると画面の輝度を落とし、省電力モードにし、モバイルバッテリーという重い鎖を繋いで歩くのが、現代人の「当たり前」だったのだ。
その当たり前のストレスが、一瞬で消滅した。
日常の些細な解放感。だがそれは、国民全体で見れば、何億時間もの無駄な心配とストレスの消滅を意味していた。
その爆発的な反響を、経産省の執務室のモニターで見ていた榛名創は、静かに安堵の息を漏らした。
コンコン。
執務室のドアが、ノックもそこそこに勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、日本を代表する自動車メーカー『トヨミ自動車』の専務取締役兼車両開発本部長・村岡だった。背広の襟を乱し、肩で息をしている。
「榛名さん! いるんだろう!」
「村岡専務、どうされました? そんなに血相を変えて」
村岡は榛名のデスクに両手をバンと叩きつけると、自前のSOLAを突き出した。画面にはバッテリー残量九十九パーセントの文字。
「これだ! うちの電子技術研究所でこのスマホを即日分解してバッテリーセルを分析させてもらった! ……常識外れだ! こんな高密度の全固体セルを、すでに何百万個も量産できているというのは本当なのか!?」
「ええ。大日本成版の輪転コーティングラインが、毎日ものすごい勢いで刷り上げていますよ」
「頼む、榛名さん!」
プライドの高い天下の巨大自動車メーカーの重鎮が、榛名の手を両手で握りしめ、目を血走らせて頭を下げた。
「あのセルを、車載用に回してくれ! 大陸勢や米国の新興メーカーにEVで周回遅れだと叩かれ続けて、うちの現場はずっと煮え湯を飲まされてきたんだ! あの電池さえあれば……うちの車は、世界中のEVを全部ゴミ箱送りにできる!」
榛名はデスクの引き出しを開け、一冊の分厚い青焼きの設計図を取り出した。
「待ってましたよ、村岡専務」
榛名の口元に、不敵な笑みが広がった。
「スマホの次は、クルマです。世界中のEV懐疑派を黙らせに行きましょう」




