第7話_印刷機が電池を刷る
神崎博士の研究室を後にした榛名創が向かったのは、自動車街の愛知でも、ハイテク拠点のシリコンバレーでもなかった。
埼玉県にある、国内最大手の総合印刷会社『大日本成版印刷』の研究所兼メガファクトリーだった。
案内された工場のクリーンルームは、体育館が三つ入るほどの広大さを誇り、そこには全長五十メートルを超える巨大な輪転印刷機械が何台も稼働していた。
だが、機械が巻き取っているのは本や雑誌の紙ではない。
厚さわずか数ミクロンの高透明光学フィルムや、半導体パッケージ用の微細配線シートだ。
「……電池を刷る、ですか?」
白衣に身を包んだ大日本成版の専務取締役兼技術開発統括・高岡が、怪訝そうに榛名の顔を見つめた。手元のコーヒーカップからは湯気が立ち上っている。
「榛名さん、官民機構のお立場は重々承知していますがね、我々は印刷屋ですよ。お札や書籍から始まって、液晶フィルムやリチウム電池の外装パウチ包材なら長年作っていますが、電池そのものを印刷するなんて前例はありません」
「前例なら、今日ここで作ればいいんです、高岡専務」
榛名はデスクの上に、神崎博士から預かった特殊自己修復電解質の液体スラリー(微細粉末を均一に混ぜた粘性インク)のサンプル瓶を置いた。黒褐色の液体が、瓶の中で鈍く光っている。
「全固体電池の量産化を阻んでいるのは、真空プレスや電気炉焼結という『バッチ処理(一枚ずつの手作業)』です。そんなやり方では、年間数億個の需要に追いつかない。……ですが、御社が液晶ディスプレイの反射防止フィルムで培った『超精密グラビアコーティング技術』ならどうですか?」
高岡の目が、かすかに細まった。
「御社の技術なら、幅一メートル以上の極薄金属箔の上に、ナノメートル単位のムラもなく均一に、分速数百メートルという超高速でペーストを連続塗布できる。そして独自の連続遠赤外線乾燥炉を通せば、一瞬で溶媒を蒸発させ、欠陥のない固体セラミックス膜を焼き固められるはずだ」
「理屈は分かりますがね……」
高岡は腕を組み、サンプル瓶を凝視した。
「セラミックスの超微粒子インクは粘性が高く、塗工ノズルが詰まりやすい。塗布膜の厚みに〇・一ミクロンでも狂いが出れば、充放電時に電界が集中してショートする。紙を刷るのとはわけが違うんです」
「だからこそ、御社にお願いしに来たんです」
榛名は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「百年以上にわたって、ミクロン以下のインクの粒と格闘し、紙の上、フィルムの上に精密な世界を刷り続けてきた日本の印刷技術者でなければ、この膜は塗れません。自動車メーカーも電機メーカーも、この電池を待っています。どうか、力を貸してください」
沈黙が落ちた。
工場の遠くから、ロールが高速で回転するリズミカルな機械音が響いてくる。
やがて、高岡はフッと自嘲気味に息を吐き出し、口元を緩めた。
「……まったく、経産省の官僚が町工場や印刷屋に頭を下げる時代ですか。世も末ですね」
高岡は立ち上がり、白衣のポケットからペンライトを抜き取った。
「うちの現場のオペレーター連中はね、印刷物のインクの匂いを嗅いだだけで、湿度が〇・五パーセント狂ってるのを見抜く化け物揃いですよ。大手電機メーカーが匙を投げたフィルムだって、うちの輪転機を通せば鏡のように平らになる。『印刷屋を舐めるな』ってところを、見せてやりましょう」
そこから、大日本成版の技術陣と神崎博士による、不眠不休の塗工テストが始まった。
インクの粘度、分散剤の配合比、スリットダイノズルのギャップ幅、乾燥炉の風速プロファイル。
最初の三日間は、乾燥時にセラミックス膜にマイクロクラック(目に見えない微細なひび割れ)が走り、不良品の山が築かれた。
だが四日目、印刷職人の一人が「乾燥炉の第一ゾーンの排気ダンパーを二ミリ開けろ。急激に乾かしすぎるから縮むんだ」と直感で指示を出した瞬間、奇跡が起きた。
ガラガラガラ……!
巨大な巻き取りロールの先端から吐き出されてきたのは、銀色の銅箔の上に、寸分の狂いもなく黒曜石のように滑らかな固体電解質が塗布された、幅一・二メートルの連続シートだった。
「……塗工厚、均一性誤差プラスマイナス〇・〇三ミクロン以内!」
「ピンホール、ゼロ! 密着強度、規格値をクリア!」
検査室のモニターに並ぶパーフェクトな緑色の数値。
分速二百メートル。一分間に、車載用バッテリーセルにして数百枚分に相当する全固体フィルムが、まるで新聞紙を刷るようなスピードでロールへと巻き取られていく。
「信じられない……」
つくばから駆けつけた神崎博士が、眼鏡を落としそうになりながら完成したロールに駆け寄った。
「あたしが実験室で三日かけて作っていたパウチが、一秒間に何十枚も刷り上がっていく……! 製造コスト、試算で……従来のリチウムイオン電池の十分の一以下よ……!」
「言ったでしょう、神崎先生」
榛名は工場の天井を見上げ、静かに笑った。
「これが、日本のものづくりの層の厚さです」
ロール状に巻き取られた銀色のフィルムは、そのまま超高速レーザーカッターで瞬時に名刺サイズへと切り出され、自動積層機によってパウチへと封入されていく。
大量生産の壁は、完全に崩壊した。
「榛名さん、最初の納入先はどこにしますか?」
高岡が尋ねた。
自動車用には、まだ車載適合試験とクラッシュテストに数ヶ月が必要だ。だが、この圧倒的な性能を、一日も早く国民の手に届けたい。
「もっと身近で、誰もが毎日使っていて、誰もがストレスを感じているデバイスです」
榛名はポケットから、自分のスマートフォンを取り出した。
「まずは……この小さな板の中から、世界を変えましょう」
神崎博士の研究室を後にした榛名創が向かったのは、自動車街の愛知でも、ハイテク拠点のシリコンバレーでもなかった。
埼玉県にある、国内最大手の総合印刷会社『大日本成版印刷』の研究所兼メガファクトリーだった。
案内された工場のクリーンルームは、体育館が三つ入るほどの広大さを誇り、そこには全長五十メートルを超える巨大な輪転印刷機械が何台も稼働していた。
だが、機械が巻き取っているのは本や雑誌の紙ではない。
厚さわずか数ミクロンの高透明光学フィルムや、半導体パッケージ用の微細配線シートだ。
「……電池を刷る、ですか?」
白衣に身を包んだ大日本成版の専務取締役兼技術開発統括・高岡が、怪訝そうに榛名の顔を見つめた。手元のコーヒーカップからは湯気が立ち上っている。
「榛名さん、官民機構のお立場は重々承知していますがね、我々は印刷屋ですよ。お札や書籍から始まって、液晶フィルムやリチウム電池の外装パウチ包材なら長年作っていますが、電池そのものを印刷するなんて前例はありません」
「前例なら、今日ここで作ればいいんです、高岡専務」
榛名はデスクの上に、神崎博士から預かった特殊自己修復電解質の液体スラリー(微細粉末を均一に混ぜた粘性インク)のサンプル瓶を置いた。黒褐色の液体が、瓶の中で鈍く光っている。
「全固体電池の量産化を阻んでいるのは、真空プレスや電気炉焼結という『バッチ処理(一枚ずつの手作業)』です。そんなやり方では、年間数億個の需要に追いつかない。……ですが、御社が液晶ディスプレイの反射防止フィルムで培った『超精密グラビアコーティング技術』ならどうですか?」
高岡の目が、かすかに細まった。
「御社の技術なら、幅一メートル以上の極薄金属箔の上に、ナノメートル単位のムラもなく均一に、分速数百メートルという超高速でペーストを連続塗布できる。そして独自の連続遠赤外線乾燥炉を通せば、一瞬で溶媒を蒸発させ、欠陥のない固体セラミックス膜を焼き固められるはずだ」
「理屈は分かりますがね……」
高岡は腕を組み、サンプル瓶を凝視した。
「セラミックスの超微粒子インクは粘性が高く、塗工ノズルが詰まりやすい。塗布膜の厚みに〇・一ミクロンでも狂いが出れば、充放電時に電界が集中してショートする。紙を刷るのとはわけが違うんです」
「だからこそ、御社にお願いしに来たんです」
榛名は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「百年以上にわたって、ミクロン以下のインクの粒と格闘し、紙の上、フィルムの上に精密な世界を刷り続けてきた日本の印刷技術者でなければ、この膜は塗れません。自動車メーカーも電機メーカーも、この電池を待っています。どうか、力を貸してください」
沈黙が落ちた。
工場の遠くから、ロールが高速で回転するリズミカルな機械音が響いてくる。
やがて、高岡はフッと自嘲気味に息を吐き出し、口元を緩めた。
「……まったく、経産省の官僚が町工場や印刷屋に頭を下げる時代ですか。世も末ですね」
高岡は立ち上がり、白衣のポケットからペンライトを抜き取った。
「うちの現場のオペレーター連中はね、印刷物のインクの匂いを嗅いだだけで、湿度が〇・五パーセント狂ってるのを見抜く化け物揃いですよ。大手電機メーカーが匙を投げたフィルムだって、うちの輪転機を通せば鏡のように平らになる。『印刷屋を舐めるな』ってところを、見せてやりましょう」
そこから、大日本成版の技術陣と神崎博士による、不眠不休の塗工テストが始まった。
インクの粘度、分散剤の配合比、スリットダイノズルのギャップ幅、乾燥炉の風速プロファイル。
最初の三日間は、乾燥時にセラミックス膜にマイクロクラック(目に見えない微細なひび割れ)が走り、不良品の山が築かれた。
だが四日目、印刷職人の一人が「乾燥炉の第一ゾーンの排気ダンパーを二ミリ開けろ。急激に乾かしすぎるから縮むんだ」と直感で指示を出した瞬間、奇跡が起きた。
ガラガラガラ……!
巨大な巻き取りロールの先端から吐き出されてきたのは、銀色の銅箔の上に、寸分の狂いもなく黒曜石のように滑らかな固体電解質が塗布された、幅一・二メートルの連続シートだった。
「……塗工厚、均一性誤差プラスマイナス〇・〇三ミクロン以内!」
「ピンホール、ゼロ! 密着強度、規格値をクリア!」
検査室のモニターに並ぶパーフェクトな緑色の数値。
分速二百メートル。一分間に、車載用バッテリーセルにして数百枚分に相当する全固体フィルムが、まるで新聞紙を刷るようなスピードでロールへと巻き取られていく。
「信じられない……」
つくばから駆けつけた神崎博士が、眼鏡を落としそうになりながら完成したロールに駆け寄った。
「あたしが実験室で三日かけて作っていたパウチが、一秒間に何十枚も刷り上がっていく……! 製造コスト、試算で……従来のリチウムイオン電池の十分の一以下よ……!」
「言ったでしょう、神崎先生」
榛名は工場の天井を見上げ、静かに笑った。
「これが、日本のものづくりの層の厚さです」
ロール状に巻き取られた銀色のフィルムは、そのまま超高速レーザーカッターで瞬時に名刺サイズへと切り出され、自動積層機によってパウチへと封入されていく。
大量生産の壁は、完全に崩壊した。
「榛名さん、最初の納入先はどこにしますか?」
高岡が尋ねた。
自動車用には、まだ車載適合試験とクラッシュテストに数ヶ月が必要だ。だが、この圧倒的な性能を、一日も早く国民の手に届けたい。
「もっと身近で、誰もが毎日使っていて、誰もがストレスを感じているデバイスです」
榛名はポケットから、自分のスマートフォンを取り出した。
「まずは……この小さな板の中から、世界を変えましょう」




