第6話_発火しない怪物
「……本当に大丈夫なんですか、神崎先生」
強化ガラスで仕切られた耐爆実験室の前で、榛名創は思わずヘルメットの鍔を押さえた。
ガラスの向こう側には、頑丈な金属製の万力に固定された、一枚の銀色パウチ――先日、神崎がつくばの実験室で見せた「全固体電池プロトタイプ1号」が置かれている。そしてその真上には、油圧シリンダーに接続された、極太の鋼鉄製スパイク(釘)が切っ先をギラリと光らせていた。
「大丈夫かって? 失礼ね」
隣に立つ神崎涼子は、防護ゴーグル越しに不満そうに眉をひそめた。手には遠隔操作用のコンソールが握られている。
「従来のリチウムイオン電池なら、内部短絡を起こして千度以上の猛烈な白煙を吹き上げ、一瞬で大爆発よ。大陸や欧米のEVが事故のたびに火だるまになって、乗員が逃げ遅れるのは全部それが原因。だから世界中の自動車メーカーは、何重もの重い冷却装置と鋼鉄の防護ケースで電池をガチガチに覆ってるの。……それがどれだけ車を重くし、電費を悪くしてるか分かる?」
「ええ、痛いほど」
「なら、見せてあげるわ。この子が『怪物』と呼ばれる理由をね」
神崎が赤いトグルスイッチを押し下げた。
シュゴオォッ!!
油圧シリンダーが轟音を立てて作動し、直径十ミリの鋼鉄の釘が、万力に挟まれた全固体電池の中央部を容赦なく貫通した。
通常なら、可燃性電解液が引火し、破裂音とともに実験室全体が火の海になる光景だ。
榛名は思わず身構えた。
だが――。
カチリ。
実験室内に響いたのは、釘が受け台の金属板に当たった硬い音だけだった。
煙ひとつ立たない。火花すら飛ばない。
釘で真ん中をブスリと串刺しにされた銀色のパウチは、何事もなかったかのように冷然と固定台の上に収まっていた。
「……え?」
榛名が目を白黒させていると、神崎は勝ち誇ったようにモニターを指差した。
「電圧計を見てみなさい」
モニターに表示された出力電圧のグラフ。
釘が突き刺さった瞬間にわずかに波打ったものの、針はピタリと「四・二ボルト」を指し示し、微動だにしていなかった。
さらに、電池に接続された高輝度LEDライトが、眩い閃光を放ち続けている。
「短絡した部位のセラミックス結晶が、レアアースの自己修復作用で瞬時に電気絶縁性の酸化被膜を形成したのよ。だから短絡電流が暴走しない。貫通されたまま、残った健全な領域で淡々と電気を供給し続けているの」
「刺されたまま……発電を続けているのか……!?」
「それだけじゃないわよ」
神崎は不敵に笑うと、第二実験シークエンスのキーを叩いた。
ロボットアームが作動し、釘が刺さったままの電池の真下へ、工業用ガスバーナーが滑り込んだ。
ボッ!!!
青白い千二百度の炎が、銀色のパウチを容赦なく包み込む。
金属パウチの表面が赤熱し、周囲の空気が陽炎のように揺らぐ。
五分。十分。
バーナーで炙られ続けても、電池は膨張すらしない。破裂もしない。
そして驚くべきことに、電圧計のメーターは依然として安定した電力を出力し続けていた。
「……信じられない」
榛名はガラスに張り付いたまま、息を呑んだ。
「燃えない、爆発しない、釘を刺されても火で炙られても電気を出し続ける……。これなら、衝突事故でバッテリーがどれだけ変形しようと、絶対に火災が起きない」
「そうよ」神崎は自慢げに胸を張った。「重い冷却ファンも、消火システムも、分厚い装甲ケースも全部ゴミ箱行き。車体重量は一気に三百キロ以上軽くなるわ。電費は跳ね上がり、航続距離は千キロを軽く超える」
榛名の脳裏に、数々のビジョンが猛烈なスピードで駆け巡った。
この電池があれば、自動車だけではない。
スマートフォンのバッテリー爆発事故はゼロになる。
ノートパソコンは極薄になり、真夏の猛暑でも熱暴走しない。
寒冷地の豪雪地帯でも性能低下ゼロ。
そして――あらゆるモビリティが、ガソリン車を過去の遺物へと追いやる圧倒的な性能を手に入れる。
「素晴らしいなんてもんじゃない……! 神崎先生、歴史が変わりますよ! すぐに国内の自動車大手や電機メーカーに声をかけて、量産化のコンソーシアムを立ち上げましょう!」
興奮してまくし立てる榛名。
だが、その熱狂に対し、神崎はふっと視線を落とし、メガネを外した。
その横顔には、先ほどの勝ち誇った笑顔は消え去っていた。
「……それができたら、苦労はしないわよ」
「え?」
神崎は実験室の明かりを消し、手元のクリーンベンチの装置を指差した。
「この試作パウチ一枚を作るのに、どれだけの時間とコストがかかったと思う? 高真空チャンバーの中で、超高純度の原料粉末を特殊な金型に入れて、一平方センチあたり数トンの超高圧で何時間もプレスして、さらに千度の電気炉で丸一日かけて焼結させたのよ」
神崎の言葉は重く、冷たかった。
「一枚作るのに、丸三日。歩留まりは五十パーセント以下。……榛名くん、自動車一台には、このセルが数百枚、数千枚必要なの。世界中のスマホやクルマに行き渡らせるには、年間で『数億枚』『数十億枚』のセルを狂いなく作らなきゃいけない。こんな真空プレスと電気炉の手作業で、どうやってそんな数を揃えるの?」
「それは……」
「性能は完璧よ。世界一の怪物電池よ。でもね、量産化の目処が立たない技術は、ただの高価な工芸品なの。欧米や大陸の巨大資本が『全固体電池は二〇三〇年代半ばまで量産不可能』って言ってるのは、この『量産の壁』を誰も破れないからよ」
神崎は寂しそうに微笑んだ。
「天才化学者が一人いたって、世界は変えられないのよ、榛名くん」
実験室に、沈鬱な静寂が戻った。
超高純度レアアースの獲得によって界面抵抗の壁は突破できた。しかし、次に立ちはだかったのは、「工業製品としての天文学的な量産コスト」という、さらに巨大な壁だった。
だが、榛名は俯かなかった。
ゆっくりと顔を上げた榛名の唇には、あの大田区の下町工場を訪れた時と同じ、不敵な笑みが浮かんでいた。
「神崎先生」
「……何よ」
「薄いフィルムの上に、ナノメートル単位の微粒子をムラなく、均一に、超高速で塗りたくる技術なら……この国には、百年前から世界一を独走し続けている産業があるんですよ」
「え……?」
神崎が丸眼鏡をかけ直し、怪訝そうに榛名を見つめた。
「車輪の再発明をする必要はありません。日本の『あの機械』を回せばいいんです」
榛名はスマートフォンの画面をスワイプし、ある国内巨大メーカーの役員連絡先を呼び出した。
全固体電池を世界へ解き放つ鍵は、化学メーカーではなく、意外な場所――日本の「印刷会社」の手の中にあった。




