第4話_静かなる外交電報
南鳥島沖での採泥成功から一週間。
日本国内の経済ニュースが沸き立つ一方、某国の商務省高官の執務室には、どこか冷ややかな空気が漂っていた。
「……ふん、深海六千メートルから泥を一握りすくい上げただけだろう。単なる科学実験のプロパガンダだ」
デスクに投げ出された日本の英字新聞を一瞥し、対外経済貿易局の副局長・チャオは吐き捨てた。
「これまで何十年も、欧米や日本の連中が深海鉱物資源だと騒いでは、採算が合わずに撤退してきた。我が国が世界の精錬シェアの七割を握っているのは、圧倒的な低コストと環境汚染を厭わない強権体制があるからだ。あの環境規制に厳しい日本人が、泥を製錬して製品化できるわけがない」
チャオが強気の姿勢を崩さないのには理由があった。
レアアースは「採掘」よりも「分離・精製」のほうが遥かに難度が高い。鉱石に含まれる十七種類の希土類は化学的性質が極めて似通っており、分離するためには大量の強酸と有機溶媒を用い、何百回もの抽出プロセスを繰り返す必要がある。その過程で生じる有毒廃液と放射性スラッジ(残渣)の処理コストは莫大で、先進国では採算が取れないというのが国際常識だった。
「来週、日本側から通商交渉の申し入れが来ているな?」
「はい。外務省と経産省の合同代表団が面会を求めています」
「予定通り、自動車工場の操業再開をエサにして揺さぶりをかけろ。半導体製造装置の対中輸出規制を緩和させる約束を取り付けるまでは、レアアースのバルブを緩めるな」
チャオは勝ち誇った笑みを浮かべた。
日本人は必ず頭を下げてくる。そう確信していた。
だがその三日後、状況を一変させる電報が通商代表部を駆け巡った。
『速報:日本・秋田県内陸部に「次世代クリーン・バイオ製錬プラント」が電撃着工』
『東京科学大学と国内製錬大手、超音波キレート剤と微生物を用いた常温無害化分離技術の実証を完了。精製コスト、大陸産の三割安を達成』
「な……んだと……!?」
チャオは手元のタブレット端末を凝視した。
日本が密かに進めていたのは、採掘だけではなかった。
従来の環境破壊型の大陸式精製を完全に過去のものにする、世界初の「閉鎖循環型バイオ・リーチング技術」。特殊な代謝機能を持つ好酸性バクテリアと超音波キャビテーションを組み合わせ、無害なキレート剤で特定レアアースだけを選択的に吸着・沈殿させる。劇薬も大量の熱エネルギーも使わず、放射性廃棄物もゼロ。
しかも、南鳥島のレアアース泥は、大陸内陸部の硬い花崗岩質鉱石とは違い、最初から泥状で粉砕の手間がいらない。
採掘から精製までのトータルコスト試算――某国産輸入価格の、なんと「三割引き」。
「馬鹿な……! 商業プラントだと!? いつの間にそんな技術を完成させていたんだ!?」
慌てふためいた某国政府は、予定を前倒しし、特使団を東京へと急派した。
迎賓館の一室で行われた非公開会談。
テーブルを挟んで対峙したのは、チャオをはじめとする某国特使団と、日本の外務省審議官、そして――防寒着からスーツに着替え、眠そうな顔で資料をめくっている榛名創だった。
「……率直に申し上げよう」
チャオは焦りを押し殺し、穏やかな笑みを取り繕いながら切り出した。
「先般の我が国の輸出管理強化は、あくまで手続き上の不備による一時的なものです。我が国は貴国との長年のサプライチェーンを重視しております。本日、相互の懸念事項を解消できれば、自動車用ネオジム磁石の輸出許可を即座に再開する用意があります」
事実上の、全面的な譲歩の打診だった。
かつてなら、日本の官僚たちは胸を撫で下ろし、感謝の言葉とともに妥協案を飲んでいたはずだった。
しかし、日本側の席から上がったのは、安堵の声ではなかった。
榛名が、手元の資料からふっと顔を上げたのだ。
「ああ、チャオ副局長。お気遣い痛み入ります」
榛名は悪意の欠片もない、極めて純朴で柔らかな笑みを浮かべた。
「ですが、どうぞご心配なく。そちらの輸出手続きに不備がおありなら、無理に急いでいただく必要はまったくありませんよ」
「……は?」
チャオの眉がピクりと跳ねた。
榛名はテーブルの向こう側へ、一冊の薄い報告書をスーッと滑らせた。
『南鳥島沖レアアース泥 国内サプライチェーン自給計画書(最終確定版)』
「秋田の新プラントは、来月から試験稼働に入ります。半年後には国内の自動車・電機メーカーが必要とする重希土類の百パーセントを供給可能です。三年後には、国内需要の三倍の生産能力に達する見込みです」
榛名は紅茶を一口すすり、穏やかに続けた。
「ですから、我が国の工場を心配して、貴国が無理に輸出枠を捻出される必要はありません。どうぞ、貴国の資源は貴国の産業のために大切にお使いください。我が国は……ええ、自分たちの海にある泥で、完全に足りておりますので」
部屋の中に、氷のような静寂が落ちた。
怒声も、脅迫も、勝ち誇った侮蔑の言葉もない。
ただ淡々と、「あなた方の資源は、もう必要ありません」と告げられたのだ。
チャオの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちた。
資源を持つ側が、持たざる側を支配する――その国際政治の鉄則が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。カードを握っていたはずの自分たちが、いつの間にか何の価値もない紙切れを振り回していたことに気づいたのだ。
「あ、それと」
榛名は席を立ちながら、人懐っこい笑顔でチャオに言った。
「もし将来、貴国の鉱山で環境汚染や精製コストにお困りでしたら、いつでもご相談ください。我が国のバイオ製錬プラントの環境浄化ライセンス、お安くお譲りしますよ」
青ざめる某国特使団を背に、榛名は軽やかな足取りで迎賓館を後にした。
外に出ると、東京の空は抜けるような青空だった。
首根っこを掴まれていた資源の鎖は、完全に断ち切られた。
榛名はスマートフォンの画面をタップし、次の目的地へと発信した。
「神崎博士、榛名です。……約束通り、無制限のネオジムとディスプロシウムを確保しました。今からつくばへ向かいます」




