第3話_黒い濁流、歓喜の甲板
船底が震えている。
南鳥島沖合、風速十五メートルの荒天。白波が『ちきゅうⅡ』の舷側を激しく叩きつける中、船内の全神経は、海中へ垂直に伸びる一本の鋼管――六千メートルの揚泥パイプへと集中していた。
「高圧コンプレッサー、圧力正常! エアリフト深度三千メートル、気泡群形成確認!」
「キャビテーション粉砕ノズル、作動圧五百五十気圧! 振動パターン、安定!」
指令室のモニターには、パイプ各所に設置された圧力センサーと流速計の数値が目まぐるしく更新されていく。
水深六千メートルの海底で、山代たちが削り出した特殊超合金ノズルが超音波水流を噴射し、固く締まったレアアース泥を瞬時にミクロン単位の粒子へと粉砕している。そこに深海から注入された超高圧エアの微細気泡が混ざり合い、比重を失った泥水が、まるで巨大なストローを逆流するように猛烈な勢いで上昇を始めていた。
だが、深度千五百メートルを通過した瞬間、警告音が指令室を切り裂いた。
ピーッ! ピーッ! ピーッ!
「内圧急上昇! パイプ内差圧が制限値を超調! 流速低下しています!」
「なんだと!?」
黒川教授がコンソールに身を乗り出した。
「気泡が上層で膨張しすぎてキャビテーションが乱れたか!? 泥塊の塊が引っかかってるのか!?」
「パイプ中央部の耐圧限界まで、あと三十秒!」
オペレーターが悲鳴のような声を上げた。
六千メートルもの長大なパイプラインだ。一箇所でも破断すれば、鋼管は自重で海底へ脱落し、プロジェクトは完全に水泡に帰す。損失額は数百億円。そして何より、日本のエネルギーと資源の未来が永遠に海底下へと葬られる。
「減圧弁を開くか!? だが今圧力を抜けば、揚泥は完全に止まるぞ!」
黒川が歯を食いしばり、迷いの汗を額に浮かべた。
その時、榛名が怒鳴った。
「抜いちゃダメだ! 逆です、黒川先生!」
「何!?」
「二番ラインのパルス水流を全開にして、背圧を叩き込んでください! ノズルの内壁には、山代の親父さんが彫った『逆流防止の流体スクリュー』がある! 一瞬だけ水撃を当てれば、詰まりをスクリューが噛み砕いて押し流すはずだ!」
黒川は榛名の顔を一瞬凝視した。
机上の理論ではない。下町の町工場で、あの職人たちが心血を注いで刻み込んだ螺旋溝の構造を、榛名は骨の髄まで理解していた。
「……乗った! 二番パルス水流、ブースト百二十パーセント、撃てェッ!!」
黒川が非常用レバーを叩き落とした。
ドォンッ!!
船体全体が飛び跳ねるような衝撃が走る。
モニターの圧力グラフが限界レッドゾーンの針を叩き――次の瞬間、ストンと緑の正常領域へと急降下した。
「……抜けたッ! 流速、毎秒十二メートルへ急上昇!」
「パイプ内泥水、深度五百、三百、百メートル……甲板サイクロンセパレーターへ到達します!」
「榛名、来いッ!」
黒川が指令室を飛び出し、榛名の手を引いて作業甲板へと駆け出した。
甲板には、海水と泥を分離するための巨大な遠心分離サイクロンプラントが唸りを上げていた。土砂降りの雨と吹き荒れる潮風の中、作業員たちが固唾を呑んで分離排出口を見つめている。
配管の奥から、ゴボゴボゴボッという異様な胎動が響いてくる。
金属管が大きく震え、継ぎ手から蒸気のような水煙が噴き出す。
そして――。
ドバッ!! ドバババババッ!!!
黒褐色の太い濁流が、轟音とともにサイクロン排出口から甲板の受け槽へと勢いよく吐き出された。
それは、ただの泥ではなかった。
雨に打たれながら光を放つその泥は、チョコレートのように滑らかで、深い漆黒の中に鈍い金属光沢を帯びていた。南鳥島沖、水深六千メートルの深海が何億年もの歳月をかけて濃縮してきた、地球の真の恵み。
「出た……! 出たぞォォォッ!!」
作業員の誰かが絶叫した。
歓声が爆発した。雨と泥にまみれながら、作業員たちが互いに抱き合い、ヘルメットを空へ放り投げる。黒川は膝から崩れ落ち、泥にまみれた手で受け槽の泥を両手ですくい上げ、子供のように笑いながら顔を覆った。
「ハハッ……見ろよ榛名! 泥だ! 本物のレアアース泥だ! 詰まってねえ、途切れも受けてねえ! 毎時百トン以上、連続で揚がってきてるぞ!!」
榛名は受け槽の縁に歩み寄り、その黒い泥に指を差し入れた。
六千メートルの深海から揚がってきたばかりの泥は、氷のように冷たく、指先を刺した。
だが、榛名の胸の奥を満たしていたのは、燃え盛るような熱さだった。
その時、船内分析室から白衣の研究員が叫びながら甲板へ飛び出してきた。手には、蛍光X線分析装置から吐き出されたばかりのデータシートが握られている。
「黒川教授! 榛名リーダー! 出ました、成分分析結果です!」
研究員の声が興奮で上ずっていた。
「全希土類濃度、六千五百ppm突破! ジスプロシウム、テルビウム、そしてネオジム……すべて想定上限値を超えています! 不純物の放射性物質は極小! これ、大陸の陸上鉱山より遥かに高品質です……採掘コスト試算、商業採算ラインを完全にクリアしました!!」
甲板が再び割れんばかりの歓声に包まれた。
榛名は、雨でずぶ濡れになりながら、天を仰いだ。
六千メートルの漆黒の底から、日本の技術者たちが、町工場の職人たちが、その執念で引きずり上げた奇跡の泥。
もう、海外の顔色を窺ってペコペコと頭を下げる必要はない。
資源がないと自嘲し、他国の禁輸カードに怯えて工場を止める日々は、今日この瞬間、終わったのだ。
「……さあ、始まるぞ」
榛名は黒く汚れた拳を固く握りしめた。
素材の供給不安が消えたなら、次は日本の天才たちが待ち望んでいた「あの技術」を解き放つ番だ。
日本を変える技術ドミノの最初のピースが、いま、轟音を立てて倒れ始めた。




