第2話_泥を吸い上げる刃
南鳥島から東京・羽田へ取って返した榛名創が最初に向かったのは、霞が関の経産省ではなく、東京都大田区の京浜工業地帯だった。
油と金属粉の匂いが立ち込める細い路地。軒を連ねる町工場のひとつ、『山代精密鍛造』の引き戸を、榛名は勢いよく開けた。
「山代の親父さん、いるか!」
旋盤の甲高い回転音と火花の中、保護メガネを額に押し上げた小柄な老人が顔を出した。山代重雄、七十二歳。新幹線の車軸からH2Aロケットのエンジンバルブまで、日本の極限加工を陰で支え続けてきた伝説の鍛造職人だ。
「なんだ、榛名じゃねえか。役人がこんな油臭いとこに何しに来た。今月は自動車部品の減産で、うちも機械を半分止めてんだよ。暇で死にそうだ」
「親父さん、暇ならちょうどいい。命がけの仕事を持ってきた」
榛名は作業台の上に、黒川教授から受け取った図面と、特殊チタン・ニッケル・コバルト超合金のインゴット(金属塊)の物性表を叩きつけた。
山代は怪訝な顔で図面を覗き込んだが、数秒後、その濁りのない職人の目が鋭く細まった。
「……なんだこのノズルの形状は。内壁の肉厚がわずか三ミリ、それでいて内側に流体キャビテーション用の特殊な螺旋溝が掘ってある。しかも材質は、世界一硬くて粘り気がねえ難削材のニッケル超合金じゃねえか。……おい、これ何の部品だ?」
「南鳥島沖、水深六千メートルの海底で、六百気圧の泥を吸い上げる採泥ヘッドの心臓部だ」
榛名は山代の目を真っ向から見据えた。
「大手重工も特殊鋼メーカーも『削れない』『型が持たない』と断ってきた。だが、これがなきゃ、日本の海底に眠る数百年分のレアアースは永遠に引き揚げられない。あの国の輸出規制で、自動車工場が止まってるのは知ってるだろ。親父さんの工場もその煽りを食ってるはずだ」
山代は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「六千メートルねえ……。海底の泥を吸い上げるために、俺の腕を使おうってのか」
「親父さんだけじゃない。室蘭の特殊鋼鍛造、東大阪の放電加工、燕三条の研磨職人。俺が知ってる限りの最高の職人に声をかけた。材料の調達と官民機構の予算枠は、俺が省内の決裁を偽造してでもねじ伏せる。……やってくれるか?」
山代はしばし図面を指先でなぞっていたが、やがてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「馬鹿野郎。役人が腹括って頼みに来てんのに、下町の職人が『できません』なんて言えるかよ。大手企業が匙を投げた難削材? 上等だ。うちの五軸マシニングセンタと、俺の五十年分の勘を叩き込んでやる」
そこからの十日間は、まさに不眠不休の狂気だった。
大田区、東大阪、室蘭を繋ぐ特急便が昼夜を問わず走り抜けた。
通常の切削工具では刃が欠けてしまう超合金に対し、山代たちは人工ダイヤモンドをコーティングした特注エンドミルを投入。冷却油の温度を〇・一度単位で制御し、素材の熱膨張を極限まで抑え込みながら、ミクロン単位でノズル内壁の螺旋溝を彫り進めていく。
燕三条の職人による最終研磨工程では、六百気圧の泥水が摩擦ゼロで滑り落ちるよう、内壁は完全な「鏡面仕上げ」へと磨き上げられた。
約束の二週間後。
南鳥島沖に停泊する『ちきゅうⅡ』の作業甲板に、クレーンによって巨大な木箱が降ろされた。
甲板で待ち受けていた黒川教授がバールで木箱をこじ開けると、中から現れたのは、鈍い銀色の輝きを放つ、三基の超合金採泥ノズルだった。
「……嘘だろ」
黒川が息を呑み、ノズルの内壁に指を滑らせた。
「内径の公差、ゼロ・ゼロ二ミリ以内……。この硬度の超合金に、こんな滑らかな流体溝を掘り抜いただと……!? どこの国の航空宇宙メーカーが作ったんだ!?」
「大田区の町工場と、日本の職人たちですよ」
隣に立つ榛名が、目の下に隈を作りながらも誇らしげに言った。
「黒川先生。物理の壁を破る刃は揃いました。あとは、あなたがこれを深海へ届ける番だ」
黒川は榛名の肩を痛いほど叩いて豪快に笑った。
「よっしゃあ! 野郎ども、艤装を急げ! 揚泥パイプの接続にかかるぞ!」
作業員たちの怒号が飛び交う中、船体中央のムーンプール(船底の開口部)から、特殊チタンノズルを装着した全長十メートルの巨大採泥ヘッドが、巻き上げワイヤーに吊り上げられた。
その背後には、六千メートル分の高張力鋼管パイプが、幾重にもラックに積み上げられている。
パイプを一本、また一本と連結しながら、漆黒の太平洋へと沈めていく。
作業開始から三十時間。
最後の一本となる六百本目のパイプが接続され、モニターの水深計が【5,982m】を示した。
海底着底まで、あと十八メートル。
研究船の指令室は、張り詰めた静寂に包まれていた。
指令室の大型モニターには、深海探査機が照らし出す海底の光景が映し出されている。
光の届かない永遠の暗黒。六百気圧の冷たい水底に、波紋のようにどこまでも広がる黒褐色の泥の平原――。
「採泥ヘッド、着底まであと五メートル、四、三、二……着底しました!」
オペレーターの緊張した声が響く。
「よし」黒川が固く拳を握りしめ、マイクを引き寄せた。
「高圧エア供給バルブ、開放! キャビテーション水流ポンプ、始動! ……吸い上げろ、日本の未来を!!」
ゴゴゴゴゴ……と、船底を揺るがす地響きのような重低音が鳴り響き始めた。
深海六千メートルから海面へ、未曾有の揚泥オペレーションが幕を開けた。




