第1話_深海6000メートルの泥塊
東京から南東へ千八百キロ以上。
本州のどの都市よりもグアムに近い絶海の孤島・南鳥島の沖合は、見渡す限りの群青色の海と、鉛色の低く垂れ込めた雲に支配されていた。
自衛隊の輸送機C―2で島に着陸した榛名創は、休む間もなく海上自衛隊のヘリコプターに乗り換え、荒れ狂う太平洋上へと飛び立った。灰色の海原に浮かぶ白い巨影――独立行政法人海洋研究開発機構が誇る地球深部探査船『ちきゅうⅡ』のヘリデッキに降り立ったとき、榛名の身体を叩きつけたのは、潮の匂いと強烈な突風だった。
「ようこそ、世界の果ての泥遊び会場へ!」
ヘリのローターが巻き起こす暴風の中、耳障りな大声で榛名を迎えたのは、白髪交じりの短髪に油じみた作業着を着た大男だった。
黒川雄三教授。東京海洋大学の名誉教授であり、日本の海洋掘削工学のパイオニアにして、学会の異端児だ。
「あなたが榛名さんか。霞が関の役人にしては、ずいぶん気の早い到着だな! スーツを着てこなかったのは合格点だ!」
「現場にスーツで来るほど世間知らずじゃありませんよ、黒川先生」
榛名は防寒ジャンパーの襟を立てながら、差し出された黒川の無骨な手を握り返した。手のひら全体がタコと傷だらけだった。研究者というより、歴戦の鉱山技師の手だ。
船内の研究区画に案内されると、そこは異様な熱気に包まれていた。
ずらりと並んだモニターには、ソナーが捉えた海底の三次元地形図や、海流の流速データがリアルタイムで表示されている。部屋の中央の円形テーブルには、アクリルケースに収められた、握り拳ほどの「黒褐色の塊」が置かれていた。
「これを見に来たんだろ?」
黒川が顎で指す。
見た目は、どこにでもあるただの湿った泥だ。しかし、この泥の中にこそ、日本という国家の運命を左右する鍵が眠っている。
「南鳥島沖、水深六千メートルの海底に広がるレアアース泥だ」
黒川がケースを指先で弾いた。
「テルビウム、ジスプロシウム、ユーロピウム、そしてネオジム。ハイブリッド車やEVの強力モーター、風力発電機、最先端ミサイルの誘導装置に不可欠な重希土類が、大陸の陸上鉱山を遥かに凌ぐ世界最高濃度で含まれている。可採埋蔵量は、日本の国内消費量の数百年分……いや、千数百年分はある」
「宝の山、ですね」
「ああ、山どころじゃない。底なしの金鉱だ」
黒川はニヤリと笑ったが、すぐにその表情を苦々しいものへと歪めた。
「だがな、榛名さん。その宝は、水深六千メートルの冥府の底にあるんだよ」
黒川がキーボードを叩くと、モニターに海底探査機のCGが表示された。
「水深六千メートル。水圧は六百気圧だ。指先の上に、軽自動車が一台丸ごと乗っかる圧力だ。海水温はほぼゼロ度。そんな極限の暗闇に、六千メートルのパイプを垂らして泥を吸い上げる。……世界中の海洋工学者が何を言っているか知ってるか?」
「『技術的にも経済的にも絶対に成り立たない』、でしょう」
「その通りだ」黒川は自嘲するように吐き捨てた。「パイプの中を泥が上がっていくうちに、砂や小石が内壁を削り倒す。高圧でポンプが破断する。詰まる。一日に揚泥できる量はせいぜい数十トン。そんなもんじゃ、船の燃料代と維持費だけで毎日何億円もの大赤字だ。『日本の深海レアアースはただの夢物語。絵に描いた餅だ』とな」
榛名は静かに頷いた。
本省の幹部たちも、海外のアナリストたちも、判で押したように同じことを言っていた。だからこそ、このプロジェクトは予算を削られ、榛名は「左遷」としてここへ送り込まれたのだ。
だが、榛名は黒川の瞳の奥に、諦めの色など微塵もないことを見逃さなかった。
「……先生。あなたのような人が、絵に描いた餅に人生を賭けるわけがない」
榛名の言葉に、黒川の眉がピクリと動いた。
「どうやって吸い上げる気ですか? 従来の海底ポンプじゃ無理なことは、あなたが一番よく知っているはずだ」
しばしの沈黙の後、黒川の口元が吊り上がった。
「ハッ、話のわかる官僚は嫌いじゃないぜ」
黒川は榛名の腕を掴むと、研究室の奥にある実験区画へと引きずっていった。
そこには、高さ五メートルほどの巨大な高圧アクリル水槽が設置されていた。水槽の中央には、複雑な螺旋状の刃とノズルを備えた、銀色に光る円錐形の金属構造物が鎮座している。
「これだ」黒川が誇らしげに言った。
「名付けて、『連続エアリフト式・キャビテーション粉砕採泥ヘッド』だ」
「エアリフト……?」
「ああ。深海に高圧ポンプを置くから壊れるんだ。深海の底に動力はいらない。海底ヘッドで泥を吸い込み、途中のパイプから高圧エアと超音波を打ち込む。空気の泡が浮上する力――比重差だけで、泥と海水を一気に海面まで引きずり上げるんだ。さらに、吸い込む直前に高圧水流の衝撃波で泥塊をミクロン単位まで粉砕する。パイプの目詰まりはこれでゼロになる」
榛名は目を見張った。
ポンプの物理的な稼働部を極限まで減らし、流体力学の力だけで深海の泥を押し上げる。コロンブスの卵のような発想だった。
「これなら……いける。一日数千トン単位の泥を連続で揚げられる」
「理論上はな!」黒川が太い指を一本立てた。「だが、最大の壁が残ってる」
「壁?」
「ノズルとパイプの素材だ。深海六百気圧の砂混じりの泥は、ダイヤモンドカッター顔負けの研磨剤だ。普通の鋼鉄やチタンじゃ、ものの三日でノズルが削りカスになって穴が空く。……あと二週間で、本番の洋上実証試験だ。だが、この水圧と摩耗に耐えうる特殊合金ノズルを作れる会社が、どこにも見つからねえんだよ」
黒川の肩がわずかに落ちた。大手鉄鋼メーカーも、重工各社も「そんな極端な物性の合金加工は納期内には不可能だ」と匙を投げたという。
榛名は、アクリル水槽の中の銀色のヘッドを見つめた。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、手帳を開いた。
「黒川先生」
「あん?」
「日本のものづくりを舐めちゃいけませんよ。大手企業が無理だと言ったからって、この国に作れないものがあるわけがない」
榛名の瞳に、強い光が宿っていた。
「ノズルは俺が調達します。最高の刃を持って、必ず二週間後にここへ戻ってきます」
榛名は黒川の返事も待たずに踵を返した。
深海六千メートルの宝の蓋を開けるための戦いは、海底ではなく、東京の下町から始まろうとしていた。




