プロローグ:穴の空いたバケツの国で
二〇二X年、十一月の東京。
午後八時を回った経済産業省本庁舎の窓からは、冷たい雨に煙る霞が関の街並みが見下ろせた。濡れたアスファルトに反射する車のテールランプが、どこか血の巡りの悪くなった血管のように赤く鈍く滞っている。
執務室の大型モニターには、夜の報道番組が映し出されていた。音声は絞られていたが、画面の右肩に躍る赤いテロップの文字が、室内の重苦しい空気を雄弁に物語っていた。
『某国、重要鉱物の輸出管理令を即日施行――事実上のレアアース禁輸へ』
『国内自動車大手、全工場でライン一時停止を決定 減産規模は月間三十万台』
『今冬の電気料金、標準家庭で過去最高値を更新 燃料費調整額が上限突破』
デスクに突っ伏すようにして書類をめくっていた榛名創は、深く、長いため息を吐き出した。冷めきったインスタントコーヒーを口に含む。舌の上に残るのは、焦げ付いた苦味だけだった。
「……また、止まるのか」
三十五歳。工学部大学院を出て技官としてこの省に入り、十年余り。
榛名がこの十年間で嫌というほど見せつけられてきたのは、日本の産業界が誇る「世界最高峰の技術」が、たったひとつのバルブを他国に締められただけで、いとも簡単に窒息させられる無残な姿だった。
日本のものづくりは死んでなどいない。
大田区や東大阪の町工場に行けば、ミクロン単位の誤差も許さない熟練工たちが、世界中の誰も真似できない超精密な部品を今も削り出している。大学や素材メーカーの研究所に行けば、世界をひっくり返すような新材料の種が、無数にシャーレの中で光を放っている。
だが、そのすべてが無駄骨になる。
製品を作るための「ネオジム」が届かない。
モーターの耐熱性を上げる「ディスプロシウム」が港で止められる。
火力発電所を回すための天然ガス船が、ホルムズ海峡の緊張ひとつで立ち往生する。
そのたびに日本の企業は頭を下げ、法外なスポット価格で資源を買い漁り、年間に二十兆円、三十兆円という天文学的な国富を産油国や資源メジャーの懐へと垂れ流し続けていた。
その皺寄せは、すべて末端の国民へと向かう。
上がらない給料、削られる研究開発費、跳ね上がる電気代とガソリン代。スーパーの野菜売り場で値札を見つめ、深いため息をついてカゴから長ネギを戻す主婦の姿を、榛名は通勤途中のスーパーで何度も目撃していた。
「穴の空いたバケツだ」
榛名は思わず呟いていた。
底に巨大な穴が空いたバケツに、国民が血の滲むような努力で水を注ぎ続けている。注いだ水――富とエネルギーは、すべて底の穴から海外へと漏れ出していく。そして外資系のアナリストや海外メディアは、高みの見物よろしく言い放つのだ。「日本は終わった国だ」「イノベーションを失った敗戦国だ」と。
「おい、榛名。まだいたのか」
背後から声をかけてきたのは、同期の事務官だった。手には、糊の乾ききっていない辞令の封筒が握られている。
榛名は振り返り、自嘲気味に口角を上げた。
「ニュースを見てたところだ。愛知の工場、明日から完全に止まるらしいな。うちの課にも業界団体から悲鳴の陳情が殺到してる」
「だろうな。……だが、お前はもうその陳情を受ける立場じゃなくなるぞ」
同期は複雑な表情を浮かべ、一枚の辞令書を榛名のデスクに置いた。
『次世代資源エネルギー機構・実務統括リーダーを命ず』
その文字を見た瞬間、榛名の心臓が微かに跳ねた。
次世代資源エネルギー機構。官民合同で立ち上げられたものの、実質的には各省庁の予算の押し付け合いと、成果の出ない研究の「墓場」と陰口を叩かれている部署だ。そして、その機構が今、唯一動かしている大規模プロジェクトの現場。
「行き先は……南鳥島か」
「ああ」同期は声を落とした。「本省の連中はみんな『左遷』だと噂してる。あんな太平洋の孤島、水深六千メートルの深海から泥を吸い上げるなんて、技術的にも採算面でも絶対に不可能だってな。予算の無駄遣いだと野党も騒ぎ始めてる。お前、貧乏くじを引かされたんだよ」
南鳥島沖の排他的経済水域。
日本の東端、東京から千八百キロ以上離れた絶海の海底に、数百年分に及ぶ超高濃度のレアアース泥が眠っていることは、十年以上前から分かっていた。だが、水深六千メートルという極限環境――指先に軽自動車が乗るほどの六百気圧という水圧、氷のように冷たく、すべてを腐食させる海水、そして途方もない揚泥コストの壁が、実用化を阻み続けてきた。
「夢物語だ」と誰もが諦め、書類の山の中に埋もれさせていた国家の遺産。
だが、榛名はデスクの辞令書を指先でなぞりながら、静かに息を吸い込んだ。
胸の奥で、冷え切っていたはずの何かが、パチリと音を立てて火花を散らしたような気がした。
「左遷か。……上等じゃないか」
「榛名?」
「海外に頭を下げて、資源を分けてもらうために国の富を差し出す仕事には、もう飽き飽きしてたんだ。誰かが底の穴を塞がなきゃいけない。泥の中に宝があるなら、それを引きずり出すのが俺たち技術屋の仕事だろ」
榛名は椅子から立ち上がると、ハンガーにかけてあった作業着の防寒ジャンパーを乱暴に羽織った。ネクタイを緩め、ポケットに突っ込む。
「黒川教授の研究船は、まだ現地にいるな?」
「え? ああ、ちきゅうの後継船が現地海域で待機してるはずだが……まさか、今夜出る気か?」
「羽田から自衛隊の補給便が出るだろ。それに乗せてもらう。現場でパイプを握ってる連中を、これ以上待たせるわけにはいかない」
執務室のドアノブに手をかけた榛名は、最後に一度だけ振り返り、モニターの中の暗いニュースを見つめた。
――見ていろ。
誰にも媚びず、誰からも奪わず、他国を脅かすこともない。
ただ自分たちの足元にある大地と海を信じ、技術の力だけで、この国を満ち足りた場所に変えてみせる。
雨の夜空へと駆け出す榛名の足音は、静まり返った省庁の廊下に、驚くほど力強く響き渡っていた。
後に世界中から「奇跡の二十年」と呼ばれることになる、静かなる超大国への長い航海が、この夜、漆黒の太平洋へ向けて静かに幕を開けたのだった。
現代日本の近未来物語ぽいのを目指します。
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