第12話_物流の血流、劇的復活
午前四時半。まだ夜の明けきらない郊外の幹線道路沿いで、ヤマノ運輸の配送ドライバー・田所勇太は、閉店した古いガソリンスタンドの前を通り過ぎながら、舌打ちをしていた。
「また一軒、潰れたか……」
四十二歳。この道二十年。毎朝、出勤前に給油所へ寄るのが習慣だったが、近所のスタンドは三年で四軒が廃業した。今は遠くの店まで往復する時間が、そのまま無給のサービス残業になっている。
しかも、そのガソリン代が上がり続けていた。会社は燃料サーチャージを荷主に転嫁しようとしたが、受け入れられるのは一部だけ。差額は、会社の利益と、ドライバーの給料から削られていった。
「時間外労働の上限もあるのに、荷物は減らねえ。割に合わねえんだよな、この仕事」
営業所に着くと、支店長の久保田が、珍しく朝から駐車場に立っていた。ストライプのシャツの袖をまくり、疲れの抜けない顔で笑っている。
「おう田所、今日から車両が全部入れ替わる。見てくれ」
営業所の一角には、見慣れない白い商用軽バンと二トントラックが、整然と並んでいた。車体の側面には、緑のラインと『全固体電池搭載車』の文字。
その横に、防寒ジャンパー姿の男が立っていた。
「榛名と申します。次世代資源エネルギー機構の者です。本日は一日、同乗させてください」
「役人さんが、配送に同乗ですか……」
田所は露骨に眉をひそめた。机の上で数字をいじる人間が、現場の苦労を知るものか。これまで何度も、そういう連中の『改善案』に振り回されてきた。
だが、榛名は穏やかに言った。
「現場の方の感想が、いちばんの検証データですから。危ないと感じたら、遠慮なく言ってください」
午前七時、荷物を積み込み、田所は軽バンのスタートボタンを押した。
エンジンの振動がない。拍子抜けするほどの静寂だった。
最初に驚いたのは、アクセルペダルだった。
踏めば進み、戻せば減速する。ブレーキを踏まなくても、足を緩めるだけで車が止まる。ワンペダル走行だ。
「うおっ!?」
交差点で急減速し、荷台の荷物が前へずれる音がした。田所は慌ててハンドルを握り直す。
「す、すみません。慣れなくて……」
「大丈夫です。最初はみなさんそうなんです」
十軒回る頃には、体が覚えていた。住宅街の細い路地で、一日に数百回繰り返す発進と停止。かつては右足がブレーキとアクセルを往復し、夕方には脹脛が棒のようになったものだ。それが、今日は足首ひとつで済む。
「楽だ……。ブレーキを踏む回数が、ほとんどねえ」
田所は呟いた。車内は静かで、荷物の置き場所を考えたり、お客さんの名前を確認したりする余裕が生まれた。ガソリンスタンドに寄る時間も、まるごと消えた。
だが、昼過ぎ、最大の山場が来た。
繁忙期の特売日が重なり、今日の荷物は二百八十個。しかも午後から、坂の多い住宅団地の配達が集中する。
田所は坂の途中で、ふとダッシュボードの残量計を見た。
『バッテリー残量 58%』
午後一時半で、半分以上残っている。だが、体に染みついた習慣が頭をもたげた。残量が心細くなる前に、スタンドへ寄っておかなければ――そう思ってしまうのだ。
「榛名さん、このまま夜まで走って、本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。この車の一日の走行可能距離は、四百キロを超えます。田所さんの今日のルートは、百九十キロほど。夜、営業所に戻ってもまだ余りますよ」
それでも不安は消えなかった。団地の最上階へ荷物を抱えて駆け上がり、戻ってくると、軽バンはまた何事もなかったように音もなく動き出す。坂道でもモーターのトルクは頼もしく、満載の荷物でも失速しない。
午後五時。最後の荷物を届けて車に戻ったとき、田所は思わずメーターをのぞき込んだ。
『バッテリー残量 34% 本日走行距離 194キロ』
「……まだ、三分の一も残ってる」
ハンドルを握ったまま、田所はぽつりと言った。
「俺、今日、一度もスタンドのこと、考えなかったな」
夕方、営業所に戻ると、久保田支店長が大きな封筒を手に待っていた。
「田所、これを見てくれ。先週までのガソリン車の月次報告と、今週の試験運用分だ」
支店長が机に広げた帳票の数字を見て、田所は目を疑った。
ガソリン車三十台分の月間燃料費、四百二十万円。全固体EV三十台分の月間電気代、百二十六万円。
「燃料代が……三分の一以下……?」
「七割減だ。しかも、整備費もオイル交換も要らないから、実際はもっと浮く」
久保田は、封筒から別の書類を出した。
「その浮いた金で、来月から全ドライバーの基本給を月二万五千円、引き上げる。……今まで、すまなかったな」
田所は言葉を失った。目の奥が熱くなる。何年も、会社の苦しい台所事情を理由に、賃上げの話はいつも棚上げにされてきた。それが今、燃料の請求書が薄くなっただけで、現実になる。
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げた田所の背中を、榛名は黙って見つめていた。
帰り際、榛名は久保田に尋ねた。
「他の荷主さんからの反応は、どうですか?」
「それが、すでに問い合わせが来ています。『輸送費を下げられないか』と。電気代が安い分、今月から運賃の改定ができそうです」
運賃が下がる。それは、スーパーに並ぶ野菜も、家電も、衣類も、あらゆる商品の値札に、静かに波及していくということだった。
一社の営業所から始まった小さな変化が、日本全国を巡る血流に流れ込んでいく。豊かさの連鎖は、いま確かに始まったのだ。




