第11話_特派員はガソリンスタンドを探す
二月の早朝、東京・竹橋。
英国放送協会(BBC)東京支局の特派員、ウィリアム・ミラーは、レンタカー営業所の駐車場で、一台の白いセダンを腕組みして眺めていた。トヨミ自動車が先月発売したばかりの、全固体電池搭載の新型EV『アルク』である。
「ミラーさん、本当にこれで青森まで行かれるんですか?」
貸出手続きを終えた店員が、心配そうに声をかけてきた。
「ええ。帰りはレッカー車の荷台から手を振ることになるでしょうけれど」
流暢な日本語で皮肉を返し、ミラーは万年筆のキャップを外した。くたびれたトレンチコートのポケットから取り出した取材手帳の一頁目には、自分の癖字でこう記してある。
『企画:日本のEVは東京から青森まで走れるか 予想:走れない』
四十五歳。東京に赴任して六年になる。この間に本国へ送った記事の見出しは、『日本のEVシフトは周回遅れ』『イノベーションを失った島国』――。日本の技術者たちが聞けば拳を握りしめそうな言葉ばかりだ。
本国デスクは今回の企画に大乗り気だった。雪の東北で立ち往生する日本製EV、最高の絵になる、と。
午前九時、ミラーはスタートボタンを押した。
エンジンの咳き込みも振動もない。メーターパネルに『航続可能距離 1,180km』と表示される。ミラーは鼻で笑って、手帳に書き込んだ。
『広告と同じ。数字は盛られる』
東北自動車道に乗ると、彼は意地の悪い実験を始めた。暖房を最強にし、シートヒーターを入れ、窓を少し開けて冷気を呼び込み、オーディオを大音量で鳴らす。電池に最大の負荷をかけて、早く音を上げさせるつもりだった。
時速百二十キロ。最初の百キロが過ぎた。二百キロが過ぎた。
メーターを見て、ミラーの笑みが固まった。
『航続可能距離 951km』
二百五十キロ走って、減ったのは二百三十キロ分ほどだ。計算が合わなかったのではない。実際の走行距離に、ほぼ等しく減っているだけだった。暖房も音楽も、数字にほとんど影響していない。
「……そんなはずはない」
福島県内のサービスエリアに滑り込んだのは、昼過ぎだった。
給油所の前には、ガソリン車が十台ほど長い列を作っている。一方、充電スペースには数台のEVが静かに停まり、乗っていた家族連れが缶コーヒーを買いに売店へ消えていく。
ミラーはしぶしぶ、コネクタを差し込んだ。トイレに行き、戻ってくる。八分。
充電を終えた車は『航続可能距離 1,140km』を表示していた。周りのEVも、とっくに走り去っている。
ミラーは給油列の最後尾の運転手が、レシートの数字に顔をしかめているのをぼんやり眺めた。
胸の奥に、冷たいものが這い上がってきた。これは、自分が書いてきた記事の前提が揺らぐ音だ。
異変は岩手県に入ってから起きた。
夕刻、猛烈な雪が降り始め、前方の電光掲示板が赤く点滅した。『この先、事故のため通行止め』。ミラーはやむなく高速を降り、国道へ迂回した。
だが、その国道もまた、雪で動かなくなっていた。数キロにわたるトラックと乗用車の列。時計の針は午後六時を回り、気温はみるみる下がっていく。
一時間。二時間。三時間。
車列はほとんど動かない。ミラーは暖房をつけたまま、メーターを睨み続けていた。立ち往生の最中に電池が尽きれば、笑い話では済まない。氷点下のこの場所で、彼は凍える羽目になる。
――コツ、コツ。
窓ガラスを叩く音がした。振り向くと、雪まみれの老夫婦が、青い唇でこちらを見ている。
「すみません……車のガソリンが切れてしまって、暖房が止まってしまって……」
ミラーは反射的にドアを開けていた。
後部座席に老夫婦を招き入れると、車内の温度が二人の顔色を変えていく。老婆が震える手でシートヒーターに触れて、涙ぐんだ。
「あったかい……ありがとうございます、外国のお方……」
ミラーは返す言葉が見つからず、前を向いたままメーターを確認した。
立ち往生から、すでに四時間。暖房は全開、四人分の体温を支え続けている。
『バッテリー残量 71%』
恐怖、という言葉が、ようやく彼の頭に浮かんだ。この車は、減らない。四時間の暖房全開で、わずか数パーセントしか。
午後十一時過ぎ、除雪が進み、ようやく車列が動き出した。老夫婦を最寄りのガソリンスタンドで降ろし、ミラーは雪の国道をひとり走り続けた。
日付が変わる直前、青森市内のホテルの駐車場に車を停める。
メーターパネルを、ミラーは長い間、見つめていた。
『走行距離 982キロ バッテリー残量 41%』
充電は福島での一回きり、八分。吹雪の立ち往生五時間を含めての数字だった。まだ、四百五十キロ以上走れる。
ミラーは手帳を開き、冒頭の『予想:走れない』の文字に、万年筆でゆっくりと二本線を引いた。
翌朝、彼は一睡もしないまま、本国のデスクへ緊急リポートを打電した。
『東京支局発。至急。
私は昨日、東京から青森まで走った。千キロ近い道のりで、充電をしたのは八分だけだ。吹雪の立ち往生で、見知らぬ老夫婦を車内で温め続けても、電池は四割も残った。
日本はEV競争に負けたのではない。別次元の乗り物を、完成させていただけだった。』
送信ボタンを押す指が、わずかに震えていた。




