第10話_雪国の軽トラ革命
新潟県魚沼地方。
日本屈指の米どころであり、冬には二メートルを超える豪雪に閉ざされるこの山間の村で、二十八歳の若手農家・佐藤健太は、朝からため息をついていた。
「またガソリン代、上がったのかよ……」
軽トラックの給油口のキャップを締めながら、レシートの数字を睨みつける。レギュラーガソリンはリッター百八十円を突破。ビニールハウスの暖房用重油も天井知らずの高騰を続けていた。
過疎化で近所のガソリンスタンドは次々と廃業し、今や給油のために往復四十キロの山道を走らなければならない。
「米の値段は上がらねえのに、燃料代ばかり食われちゃ、何のために百姓やってるか分かんねえな……」
そこへ、けたたましいクラクションとともに、村の農協組合長が真新しい「白い軽トラック」を運転して佐藤の納屋へと乗り込んできた。
だが、その車は何かがおかしかった。
軽トラ特有の「バババババッ」という甲高いマフラーの排気音がしない。新雪を踏みしめるタイヤのキュッキュッという摩擦音だけを響かせて、滑るように目の前に停まったのだ。
「おう、健太! 頼まれてたモニター車両が届いたぞ!」
組合長が運転席から降りてきた。
「組合長、これ……電気自動車ですか?」
佐藤が荷台を覗き込むと、マフラーも給油口もない。代わりに、車体側面に充電リッドと、荷台の鳥居の脇に二口の頑丈な「百ボルト・二百ボルト防水コンセント」が備え付けられていた。
「そうだ。国とトヨミ自動車が共同開発した、全固体電池搭載の『次世代スマート軽トラ・大地』だ。雪国の若い農家に真っ先に使ってもらってデータを集めたいってんで、県内で五台だけの先行モニターにお前が選ばれたんだよ」
「いやいや、組合長! 雪国でEVなんて無理ですよ!」
佐藤は手を振って後ずさりした。
「バッテリーは寒さで死ぬし、ぬかるんだ農道でスタックしたら一発で終わりだ。オヤジの代から乗ってる四駆のガソリン軽トラじゃなきゃ、この雪山は越えられませんって!」
「まあまあ、騙されたと思って乗ってみろ。電気代はモニター期間中、国がタダにしてくれるそうだぞ」
タダという言葉に釣られ、佐藤は渋々『大地』の運転席に乗り込んだ。
キーを回すのではなく、スタートボタンを押す。メーターパネルに鮮やかな液晶ディスプレイが灯るが、エンジン音は一切しない。あまりの静寂に「本当に動くのか?」と不安になりながら、チェンジレバーをDに入れ、アクセルを軽く踏み込んだ。
――次の瞬間、佐藤の首が後ろにカクンと持っていかれた。
「うおっ!?」
アクセルを踏んだコンマ一秒後、まるで巨大な見えない手に背中を押されたような強烈なトルクが立ち上がった。
前後に一基ずつ配置された高効率小型モーター。床下に敷き詰められた全固体電池の低重心設計により、タイヤが凍結路面を鷲掴みにしている。
「な、なんだこれ……! すげえ静かなのに、めちゃくちゃ力がある!」
佐藤は恐る恐る、村の奥にある急傾斜の農道へと車を走らせた。
新雪が三十センチ以上積もった未除雪の登坂路。従来の軽トラなら、チェーンを巻いてローギアに入れ、エンジンを悲鳴のように吹かしてもタイヤが空転してスタックする魔の坂道だ。
だが、『大地』は何事もないかのように、スーッと雪をかき分けて坂を登っていく。
四輪の独立モーター制御が、スリップした車輪の駆動力を瞬時に他の車輪へと再配分しているのだ。排気ガスも出ない。雪景色の中に響くのは、車内のラジオから流れる軽快な音楽だけだった。
「すげえ……! 雪道で一度も滑らねえ! それに、暖房が秒速で効いてくる!」
ガソリン車のようにエンジンの水温が上がるのを待つ必要がない。ヒートポンプ式超高効率エアコンが、電源を入れた瞬間に温風を吹き出し、凍りついた足先をポカポカと温めてくれた。
そしてその夜、この軽トラックの真の真価が発揮される事件が起きた。
急速に発達した低気圧により、魚沼地方を過去最大級の猛吹雪が襲ったのだ。
深夜二時、激しい風雪の重みで裏山の送電線が破断。村全体が一瞬にして漆黒の闇に包まれ、大停電が発生した。
「健太、起きろ! 停電だ!」
父親の悲鳴で飛び起きた。
「外はマイナス十度だぞ! 育苗用ビニールハウスの温風暖房機が止まっちまった! このままじゃ、丹精込めて育てたイチゴの苗が朝までに全滅する!」
発電機を回そうにも、備蓄のガソリンは底をついていた。
家族全員が絶望に顔を青ざめさせた時、佐藤の脳裏に、昼間に納屋へ停めた『大地』の姿が閃いた。
「……オヤジ、コードリールを持ってこい!」
佐藤は吹雪の中を納屋へ疾走した。『大地』の荷台の防水コンセントカバーを跳ね上げ、家庭用の極太延長コードを力任せに差し込む。
インパネの「外部給電(V2H)スイッチ」をオンにした。
カチリ。
プシューンという音とともに、真っ暗だったビニールハウスの温風暖房機が勢いよくファンを回し始めた。続いて母屋の配電盤へとコードをバイパスさせると、自宅のリビングの明かりがパッと灯り、冷蔵庫が息を吹き返し、電気ストーブとコタツが温まり始めた。
「つ、点いた……! 電気が点いたぞ!」
震える母親と妹が、歓声を上げて抱き合った。
「健太、この車……どれくらい持つんだ?」
父親がおそるおそる尋ねた。
佐藤は運転席のモニターを確認した。
全固体バッテリー容量、七十五キロワット時。
ハウスの暖房機と自宅の主要家電をすべてフル稼働させても、モニターには驚くべき数字が表示されていた。
『外部給電中:残り使用可能時間 72時間30分』
「……三日間だ」
佐藤は呆然と呟いた。
「オヤジ、この車一台で、うちの家とハウスの電気、丸三日間使いっぱなしにできる……!」
翌朝、吹雪が止んだ。
他の農家が停電と寒さに震え、作物の被害に頭を抱える中、佐藤のビニールハウスのイチゴは青々とした葉を広げ、みずみずしい実を守り抜いていた。
昼過ぎ、モニターの様子を見にやってきた榛名創の前に、佐藤は駆け寄るなり深々と頭を下げた。
その目には、涙が光っていた。
「榛名さん! この軽トラ、モニター期間が終わっても絶対に返しませんからね! ローンでも何でも組んで買い取ります! ……村の連中も、朝からうちのハウスを見て全員『同じ車を売ってくれ』って騒いでるんです!」
榛名は、泥と雪にまみれた白い軽トラックを見つめ、優しく微笑んだ。
「買い取る必要はありませんよ、佐藤さん。国からの普及補助金と地域電化リースで、今のガソリン代の半分の支払いで済むように制度を設計しましたから」
「えっ……ガソリン代より安いんですか!?」
「ええ。もう高い燃料代に怯えながら農業をする時代は終わりです。この車が、あなたたちの命と暮らしを守るインフラになります」
白銀の山々に、新時代の産声が響き渡っていた。
全固体電池は、大都市の富裕層のおもちゃではない。日本の大地を耕し、日々の生活を支える名もなき人々の手に、いま確かに手渡されたのだ。




