魔王軍の影、そして絶対者の蹂躙
アレス・ヴァン・グランベルが、実の父を追放し公爵家の玉座を簒奪してから、半年が経過していた。
この半年間で、帝国におけるグランベル公爵家の在り方は劇的な変貌を遂げた。
かつてのクロヴィスが築いていた腐敗した貴族たちとの癒着は、アレスの命を受けた暗黒組織『黒梟』の暗躍によって根こそぎ物理的に「切除」された。
無能な将校や横領に手を染めていた文官たちは次々と姿を消し、代わりに実力のみを評価された平民出身の若き俊英たちが要職に就いた。
アレスの統治は氷のように冷徹でありながら、完全な実力主義と合理性に裏打ちされていたため、領民や末端の兵士たちからは狂信的なまでの支持を集めることとなった。
表の権力と、裏の暴力。
その両方を完全に掌握したアレスは、弱冠十五歳にして、皇帝すらも意見を伺う帝国の事実上の支配者として君臨していた。
そんな折、帝城ルミナスの円卓会議室において、重苦しい空気が漂う緊急軍事会議が開かれていた。
「――報告いたします。帝国最北端の防衛拠点『アイゼン要塞』が、昨夜未明、完全に陥落いたしました。
駐留していた一万の防衛部隊は全滅。生存者は……ゼロです」
伝令の騎士が青ざめた顔で読み上げた報告に、円卓を囲む歴戦の将軍たちは一様に息を呑み、沈黙した。
「馬鹿な……アイゼン要塞は、帝国が誇る最高峰の魔法防壁を備えた難攻不落の要衝だぞ! それが、たった一晩で陥落しただと!?」
「敵の規模は!? ただのスタンピードではないのだろうな!」
将軍の一人が怒鳴るように問うと、伝令はガタガタと震えながら答えた。
「て、敵は……魔王軍です。魔王直属の最高幹部である『六魔将』の一角、大悪魔ザガンが率いる五万の死霊と魔獣の混成軍が、国境を越えて進軍を開始したとのこと。
ザガンの操る『腐死の瘴気』の前に、要塞の魔法防壁は紙屑のように溶かされ、兵士たちは生きたままアンデッドに変えられたと……!」
「六魔将だと……っ!?」
会議室が絶望のどよめきに包まれた。
魔王軍の最高幹部。
それは、人間の一国を単独で滅ぼすほどの災害指定クラスの怪物である。
かつての大戦においても、彼らの一人が現れただけで、帝国騎士団の半分が壊滅したという記録が残っているほどだ。
「陛下! 直ちに全軍を招集し、第二防衛線で迎え撃つしかありません! しかし、相手はあのザガン……どれほどの犠牲が出るか……」
「くそっ、レオン将軍が健在であったとしても、止められたかどうか……」
将軍たちが頭を抱え、皇帝もまた苦渋に満ちた表情で天を仰ごうとした。
その時である。
「――随分と騒々しいな。たかが虫けらが一匹、壁を這い上がってきた程度で、帝国の首脳陣ともあろう者たちが揃いも揃って泣き言か」
円卓の最奥、皇帝の隣に設けられた特別席。
そこに深く腰掛け、退屈そうに頬杖をついていた漆黒の外套の青年――アレス・ヴァン・グランベルが、氷のような声で静かに言い放った。
「ア、アレス殿……しかし、相手は六魔将ですぞ! 一万の魔獣の群れとは訳が違う。ザガンは高度な知能と、古代魔法を操る本物の化物で――」
「化物? 笑わせるな」
アレスは立ち上がり、冷笑を浮かべて将軍を一瞥した。
その深淵のような漆黒の瞳に見据えられ、将軍はカエルに睨まれた蛇のように言葉を失う。
「前世、僕が表舞台に立たなかったことで、人類は奴ら魔王軍に良いように蹂躙された。無能な兄たちに知恵と力を与えて英雄に仕立て上げようとした僕の『手抜き』が、人類の敗北を長引かせたのだ。……その反省は、すでに済ませている」
アレスの言葉の意味を、周囲の者たちは誰一人として理解できなかった。
だが、彼から放たれる絶対的な自信と、周囲の空気を凍りつかせるほどの濃密な魔力のプレッシャーに、ただ圧倒されることしかできない。
「全軍の招集など不要だ。軍隊を動かせば、足手まといになるだけだからな」
「で、では、どうされるおつもりで!?」
「簡単なことだ。害虫駆除には、僕一人が行けば事足りる」
アレスが右手を軽く振ると、彼の足元に複雑怪奇な幾何学模様を描く『空間跳躍陣』が瞬時に展開された。
「陛下。夕食の時間までには戻ります。少し、北のゴミ掃除をしてきましょう」
それだけを言い残し、アレスの姿は青白い光と共に会議室から完全に消失した。
残された皇帝と将軍たちは、ただ呆然と、救世主の背中が消えた空間を見つめることしかできなかった。
帝国北部の国境地帯。
かつて難攻不落と謳われたアイゼン要塞は、今や見る影もなく崩壊し、黒い瘴気を放つ瓦礫の山と化していた。
周囲の平野には、帝国兵の死体を苗床にして生み出された五万を超える死霊の軍勢が、不気味な呻き声を上げながらひしめき合っている。
要塞の最も高い城壁の残骸。そこに設えられた玉座に、尊大に腰を下ろしている異形の者がいた。
魔王軍六魔将が一角、大悪魔ザガンである。
四本の捻じ曲がった漆黒の角を持ち、山羊の頭蓋骨を模した仮面を被ったその姿は、周囲に死の呪いを撒き散らす死神そのものであった。
「ククク……脆弱な人間どもめ。我が『腐死の瘴気』の前には、魔法防壁など薄紙に等しい。このまま五万の死霊軍で帝都まで南下し、人間どもを一人残らず腐肉の軍勢に加えてやろう」
ザガンが下劣な笑い声を上げた、まさにその瞬間。
『――随分と趣味の悪い軍隊だな。腐った死体遊びが、悪魔のトレンドなのか?』
声は、ザガンの真上から降ってきた。
ザガンが驚愕して天を仰ぐと、空中に何もない虚空を足場にして立つ、一人の人間の青年の姿があった。
漆黒の外套が、北の冷たい風にはためいている。アレス・ヴァン・グランベルであった。
「何者だ、貴様!? 上空の瘴気結界をどうやって通り抜けた!」
「瘴気? ああ、この程度の薄ら寒い空気のことか。呼吸の邪魔だから、消させてもらったよ」
アレスが指をパチンと鳴らした瞬間。
アイゼン要塞の周囲数十キロを覆い尽くしていた、生物を瞬時に腐らせるはずの『腐死の瘴気』が、まるで薄皮が剥がれるように一瞬にして消滅し、青空が姿を現した。
「なっ……我が結界が、無詠唱の一振りで消し飛んだだと……!?」
ザガンの山羊の仮面の奥にある眼窩が、信じられないものを見るように見開かれた。
彼の結界は、帝国の宮廷魔導師百人が束になっても破れないほどの高度な呪術で構築されているのだ。
「貴様……ただの人間ではないな。だが、たった一人で我が五万の軍勢に立ち向かおうなどと、愚かの極み! やれ、死霊ども! その人間を引きずり下ろし、骨まで食い尽くせ!」
ザガンの命令に従い、地平線を埋め尽くす五万の死霊軍が、一斉にアレスへ向かって怨嗟の声を上げながら殺到しようとした。
弓兵のアンデッドたちが無数の毒矢を放ち、空を覆い尽くす。
「一から十まで、すべてが『遅い』
お前たちは、僕の前で行動を起こすのが遅すぎるんだ」
アレスは、飛来する数万の毒矢を見下ろし、冷たく静かに詠唱を紡いだ。
『――天蓋崩落』
それは、神話の時代に存在したとされる、神が世界を滅ぼすために使った禁忌の魔法。
アレスの言葉と共に、遥か上空の成層圏の空間が「割れた」
青空が裂け、宇宙の暗闇が顔を覗かせたかと思うと、直径数百メートルを超える真紅の火球――すなわち『巨大な隕石』が、空を焼き焦がしながら真っ直ぐに要塞へと落下してきたのである。
「は……? あ、あ、あれは……なんだ……!?」
ザガンは玉座から転げ落ち、迫り来る巨大な絶望の塊を見上げて硬直した。
逃げる場所などない。防ぐ手段など存在するはずがない。
大気との摩擦で空が真っ赤に染まり、絶大な熱波が地上の死霊たちを触れる前に灰へと変えていく。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!? ま、待てっ! 私は六魔将だぞ! 魔王様の右腕たる私が、こんな理不尽な――」
――ズドドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!
ザガンの絶叫は、隕石が大地に激突した際に生じた、天地をひっくり返すような轟音と爆発にかき消された。
五万の死霊軍など、文字通り一瞬の塵と化した。
要塞の跡地もろとも、大地はクレーター状に抉り取られ、数百メートルの巨大な溶岩の池が形成された。
そこにあったすべての質量と存在が、純粋な破壊のエネルギーによって概念ごと消滅したのである。
「……ふむ。少し出力を上げすぎたか。だが、死体の掃除には丁度いい」
アレスは空中に浮遊したまま、煮えたぎるマグマのクレーターを冷ややかに見下ろした。
その圧倒的な破壊を前にしても、彼の表情には欠片ほどの高揚もない。
ただ、道端のゴミを蹴りのけた程度の認識しかなかった。
「さて。まだ息はあるようだな、ゴキブリめ」
アレスが溶岩の池のほとりに向かって手をかざすと、見えない引力によって、黒焦げになり、四肢の欠損した肉塊が引きずり出された。
辛うじて『命の根源』である魔核だけを守り抜き、虫の息で生き延びていたザガンである。
「あ……がっ……はっ……」
ザガンはもはや言葉を紡ぐこともできず、ただ一つの恐怖に支配されていた。
目の前にいるのは、人間ではない。
魔王よりも遥かに恐ろしく、無慈悲で、絶望的な力を持った『何か』だ。
自らを最強の悪魔だと信じて疑わなかった彼の尊大さは、完全に粉砕されていた。
「六魔将と言ったな。丁度いい、僕はお前たちの主である『魔王』の正確な現在位置を知りたくてね。前世では、無能な人間の軍隊が情報を集めるのに手間取りすぎたせいで、魔王の首を取る前に処刑されてしまったからな」
「ぜん、せ……? き、さまは、いったい……」
「お前が理解する必要はない。ただ、脳の髄まで情報を抜き取らせてもらう」
アレスが冷酷な目でザガンの頭部に手をかざすと、凄まじい痛みを伴う『強制精神検索』の術式が発動した。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!? や、やめろォォォォッ!!」
ザガンの精神が文字通り引き裂かれ、魔王軍の軍事機密、魔王城の正確な座標、結界の構造、その他の六魔将の能力といったあらゆる情報が、瞬時にアレスの脳内へとダウンロードされていく。
悪魔にとってさえ禁忌とされる魂の凌辱。ザガンは血の涙を流し、精神を完全に崩壊させた。
「……なるほど。魔王城は『黒死の絶叫谷』の最深部か。そして、残る六魔将は五匹。……手間が省けた」
必要な情報をすべて引き出したアレスは、完全に廃人と化したザガンを見下ろし、指先で軽く弾いた。
『――灰燼に帰せ(アッシュ・トゥ・アッシュ)』
ボッ、という小さな音と共に、ザガンの残骸は青白い炎に包まれ、文字通り一瞬にして真っ白な灰となり、北の風に吹かれて消滅した。
魔王直属の最高幹部と、五万の軍勢。
帝国を恐怖のどん底に陥れたその脅威は、アレス・ヴァン・グランベルというたった一人の青年の手によって、ものの五分でこの世から完全に削除されたのである。
「さて、と」
アレスは踵を返し、遥か北方の空――暗雲が立ち込める魔の領域へと冷徹な視線を向けた。
「待っていろ、魔王。お前たちがこれまで人類から奪ってきた以上の絶望を、僕が直々に与えてやる。……僕の覇道の前に立ち塞がるものは、神であろうと悪魔であろうと、すべて等しく蹂躙し尽くしてやる」
公爵家を掌握し、完全なる実権を手にした不遇の天才は、今や帝国の枠を超え、世界そのものを平定する絶対者への道を歩み始めた。
魔王軍の完全殲滅。
誰の助けも借りず、誰の影にも隠れない。
ただ圧倒的な個の武力と冷酷なる知略によって世界を統一する、大魔導卿の血塗られた伝説。
人類と魔王軍の長きにわたる戦いの歴史は、この日、アレスという規格外の怪物の手によって、完全なる「一方的な殺戮劇」へと書き換えられたのである。




