玉座の簒奪、そして父への引導
帝都ルミナスの中心部に広大な敷地を構える、グランベル公爵邸。
数百年の歴史を誇り、帝国の武を象徴するその豪奢な正門を、アレス・ヴァン・グランベルは堂々たる足取りで通り抜けた。
三年前、「魔力ゼロの無能」としてこの門から北の離れへと追放された時とは違う。
今の彼は皇帝から特級武功章を授かり、帝国を救った「英雄」として、誰もが傅く絶対的な存在であった。
「お、お待ちしておりました、アレス様……!」
「どうぞ、本館へ……!」
整列した公爵家の使用人や護衛の騎士たちは、皆一様に顔を青ざめさせ、震えながら深く頭を下げていた。
つい先日まで彼を「北の離れのゴミ」と陰口を叩いていた者たちだ。
だが今、彼らの目にあるのは底知れぬ畏怖だけである。
一万の魔獣を単独で消し飛ばし、宮廷では次男のギルバートを冷酷に破滅へと追いやった大魔導卿。
その機嫌を少しでも損ねれば、自分たちなど一瞬で塵にされるという恐怖が、屋敷全体を支配していた。
アレスは彼らを一瞥することもなく、大理石の廊下を歩き、本館の最奥に位置する当主の執務室へと向かった。
重厚なマホガニーの扉を魔力で無造作に吹き飛ばし、室内へ足を踏み入れる。
「……随分と荒っぽいノックだな、アレス」
執務室の奥、豪奢なデスク越しに座っていたのは、グランベル公爵家当主であり、アレスの父であるクロヴィス・ヴァン・グランベルだった。
彼の顔には余裕の笑みが貼り付いていたが、その額には微かに冷や汗が滲んでいる。
長男のレオンと次男のギルバートが相次いで失脚し、公爵家の権威は今、かつてないほどに揺らいでいた。
「ノックなど、客人や目上の人間にする行動だ。自分の家を歩くのに、いちいち扉に許可を求める必要はないだろう?」
「ふっ、強気なことだ。だが、皇帝陛下の御前でも言ったが……お前は実に素晴らしい『力』を持っている。魔法が使えないというのは、あの宝玉のポンコツぶりが招いた誤解だったようだな」
クロヴィスは立ち上がり、恩着せがましい態度で両手を広げた。
「レオンとギルバートの愚行は残念だったが、案ずることはない。グランベルの血は、お前という最高の傑作を生み出したのだからな。……アレス。お前を今日から本館に戻し、次期当主として指名してやろう。私の右腕として、この公爵家を共に盛り立てていこうではないか」
それは、クロヴィスなりの最大の譲歩であった。
帝国最強の武人としてのプライドを持つ彼が、一度は追放した息子を認め、自らの後継者として迎え入れる。
普通の息子であれば、涙を流して喜ぶだろうと本気で信じていた。
しかし、アレスの反応は、クロヴィスの予想を遥かに超えるほど冷淡なものだった。
「……次期当主に指名してやる、か。相変わらず、自分の置かれている状況がまるで理解できていないようだな、クロヴィス」
「なんだと?」
「お前が僕に当主の座を与えるのではない。僕が、お前からすべてを『奪う』のだ。お前はもう、この公爵家において何の価値もないのだから」
アレスが懐から数枚の羊皮紙を取り出し、クロヴィスのデスクへと放り投げた。
「な、なんだこれは……」
羊皮紙を手にしたクロヴィスの顔から、急速に血の気が引いていった。
それは、グランベル公爵家が所有する領地の権利書、主要な事業の借用書、そして公爵家直属の騎士団への給与支払い証明書であった。
だが、そのすべての債権者・権利者の欄には、『黒梟商会』――すなわち、アレスが裏社会で操っている組織の名が記されていた。
「ギルバートが横領し、使い込んだ穴を埋めるため、お前は裏の金融組織から莫大な借金をしていただろう? その債権をすべて買い取らせてもらった。加えて、給与の支払いが滞っていた騎士団の未払い分も、すべて僕のポケットマネーで立て替えておいた」
「き、貴様……っ! では、我が家の財政はすでに……!」
「ああ、完全に僕の掌の上だ。さらに言えば、騎士団の忠誠もすでにお前にはない。お前がレオンを見捨て、ギルバートの悪行を黙認していた事実を、彼らは知っているからな。今、屋敷の外を囲んでいる騎士たちは、お前を守るためではなく、お前が逃げ出さないように監視するための僕の『私兵』だ」
アレスの冷酷な事実の羅列に、クロヴィスは怒りで顔を真っ赤に染め上げた。
経済も、軍事力も、権威も。
気付けば、自分が座っていたはずの絶対的な王座は、根元から完全に腐り落ち、ただこの忌々しい三男の意思一つで崩壊する砂上の楼閣と化していたのだ。
「ふ、ふざけるな……ふざけるなァッ!! 私は、クロヴィス・ヴァン・グランベルだ! 帝国最強と謳われたこの私から、すべてを奪うだと!? たかが魔法が少しばかり得意になった程度の小童が、調子に乗るな!!」
激昂したクロヴィスは、壁に飾られていた家宝の大剣を引き抜き、凄まじい闘気を纏ってアレスへと躍りかかった。
クロヴィスは紛れもなく一騎当千の剣士である。
その身体能力と剣技は、レオンなど足元にも及ばない。
踏み込みと同時に執務室の床が爆発し、目にも止まらぬ神速の一撃がアレスの首筋へと放たれた。
――ガァァァァァァンッ!!
耳をつんざくような金属音が響き渡り、すさまじい衝撃波が部屋の調度品を粉々に吹き飛ばした。
だが。
アレスの首は、繋がったままだった。
「……なっ!?」
クロヴィスは目を見開いた。
彼が全力で振り下ろした大剣の刃は、アレスの首筋からわずか数センチの空間で、目に見えない強固な壁に阻まれて完全に停止していた。
「遅い。そして、軽いな。レオンの剣が木の枝だとするなら、お前の剣はせいぜい錆びた鉄パイプといったところか。……帝国最強? 井の中の蛙が、よくもまあそこまで思い上がれたものだ」
アレスが冷ややかに言い放つと同時。
『――拒絶衝力』
アレスの周囲の空間から、圧倒的な反発力を持った衝撃波が全方位へ向けて炸裂した。
「ぐはぁっ!?」
クロヴィスの巨体が、紙屑のように空中に吹き飛ばされ、執務室の分厚い壁をぶち抜いて廊下へと叩き出された。
壁の残骸と共に床に転がったクロヴィスは、信じられないものを見るような目でアレスを睨みつけた。
「がっ、はっ……! ば、ばかな……私の全力の一撃が、防壁魔法の展開すら見えずに弾かれただと……!?」
「防壁魔法? そんな大層なものは使っていない。ただ、僕の周囲の魔力密度を極限まで高めて、物理的な干渉を無効化する『空間断層』を常時纏っているだけだ。……お前たちの原始的な闘気など、僕の魔力の海を渡ることすらできない」
崩れた壁の穴から、アレスがゆっくりと廊下へ歩み出てくる。
その瞳は、深淵の底のように暗く、冷たい。
クロヴィスは本能的な恐怖を感じながらも、必死に大剣を杖代わりにして立ち上がった。
「なめるな……私は、当主だ! 親に向かって剣を向けるなど、天が許しても私が許さん!!」
「天? 親?」
アレスの口元が、歪に吊り上がった。
「三年前に僕に魔力ゼロの烙印を押し、北の離れへ放逐した時、お前は僕を『家族ではない』と言い捨てた。レオンが死地に赴く時、お前は『公爵家のための駒』としか見ていなかった。ギルバートが罪を犯した時、お前は自らの保身のために黙秘を貫いた」
アレスの背後に、莫大な魔力が実体化し、無数の黒い槍となって虚空に展開される。
その一つ一つが、城壁をも容易く貫通するほどの絶大な破壊力を秘めていた。
「お前は親ではない。ただ権力に縋り付き、子供たちの血肉を啜って肥え太ってきた、醜悪な寄生虫だ」
「ヒッ……!?」
「前世、僕に無実の罪を着せ、断頭台へ送る書類にサインしたお前の、あの薄ら笑い……僕は一日たりとも忘れたことはない」
「ぜ、前世? 何を言っている……お前は、一体……」
理解の範疇を超えた言葉と、圧倒的な死のプレッシャーに、クロヴィスの足はついに震え、その場にへたり込んだ。大剣が手から滑り落ち、カランと虚しい音を立てる。
戦意喪失。
帝国最強の武人は、魔法を放つまでもなく、ただその殺気と絶望的な魔力差だけで完全に心を折られたのだ。
「……終わりだ。お前のくだらないプライドも、その命も」
アレスが指を振り下ろそうとした、その瞬間。
「お待ちください、アレス様!」
廊下の奥から、血相を変えて駆け寄ってくる老騎士の姿があった。
レオンの副官を務めていた、バルガスである。
彼はアレスの前に深く膝をつき、必死に懇願した。
「どうか、どうか剣をお収めください! クロヴィス様が愚かであることは、我々騎士団も承知しております。しかし、ここで実の父親を手にかければ、アレス様の『英雄』としての名声に拭い去れぬ傷が付きます! アレス様は、これからの帝国を背負って立つ御方。このような輩のために、その手を汚す必要はございません!」
バルガスの言葉に、アレスは展開していた黒い槍の群れをピタリと停止させた。
名声など、アレスにとっては利用するための道具でしかない。
だが、帝国の実権を握り、真の目的である魔王軍殲滅に向けて国を動かすためには、「親殺しの狂人」というレッテルは少々面倒な障壁となる。
「……なるほど。確かに、この程度のゴミを殺して、僕の服に血の匂いがつくのは不快だな」
アレスは魔力の槍を霧散させ、床に這いつくばるクロヴィスを冷酷に見下ろした。
「命拾いしたな、クロヴィス。だが、お前にグランベルの当主を名乗る資格は、もう二度とない」
「あ……あぁ……」
「今日この瞬間をもって、クロヴィス・ヴァン・グランベルを当主の座から引き摺り下ろし、公爵家から永久追放とする。帝都から出て行け。財産も、名誉も、何もかもを置いて、着の身着のまま一人で路地裏の泥水をすするがいい」
それは、かつてアレスが受けた仕打ちと全く同じ。
いや、すべてを奪われ、高齢にしてすべてを失った分、その絶望は遥かに重い。
「さあ、衛兵。この元・当主殿を屋敷の外へ放り出せ。もし門の前に居座るようなら、不法侵入者として切り捨てて構わない」
「はっ!!」
バルガスの合図と共に、かつてクロヴィスに忠誠を誓っていた騎士たちが無言で歩み寄り、クロヴィスの両脇を抱えて乱暴に引きずり起こした。
「や、やめろ……私に触れるな! 私はグランベルの当主だぞ! アレスゥッ! 許さん、許さんぞぉぉぉっ!!」
クロヴィスの惨めな叫び声が、屋敷の廊下に空しく響き渡り、やがて正門の外へと消えていった。
シン、と静まり返った廊下。
アレスは踵を返し、再び執務室へと足を踏み入れた。
粉砕された壁。散乱する書類。
その部屋の奥にある、グランベル家当主が座る豪奢な革張りの椅子。
アレスはゆっくりと歩み寄り、その『玉座』に深く腰を下ろした。
(終わった。……いや、ようやく『始まった』のだ)
十年前の、あの処刑の日。
自分を裏切り、殺そうとした家族への復讐は、これで完全に完遂された。
レオンは地下牢で狂い、ギルバートは絶望の闇に落ち、クロヴィスはすべてを失い路地裏の塵となった。
だが、アレスの心に満ちているのは、復讐を成し遂げた安堵ではない。
さらなる冷徹な闘志と、絶対的な覇者の眼差しであった。
「……ガルド。聞いているな」
アレスが何もない虚空に向かって呟くと、執務室の影からヌルリと『黒梟』の首領、ガルドが姿を現した。
「はっ。すべて、我が主の御心のままに。公爵家の引き継ぎと、帝国の裏経済の完全統合。明朝には完了いたします」
「ご苦労。……帝国最大の武力と資金力は、これで完全に僕の手中に落ちた。だが、これらはあくまで『準備』に過ぎない」
アレスは玉座の肘掛けに腕をつき、窓の外――遥か北方の空、魔王軍が支配する暗黒の領域を鋭く睨み据えた。
「前世で僕が成し遂げられなかった、真の目的。人類を脅かす害悪どもを、この手で完全に殲滅する」
家門を乗っ取った不遇の天才は、今や帝国の実質的な支配者として君臨した。
冷酷なる知略と規格外の魔力を以て、世界に平和という名の絶対支配をもたらすための、大魔導卿の血塗られた覇道。
その壮絶なる反逆の歴史は、ここから真の幕開けを迎えるのである。




