凱旋の魔導卿と、次男の滑稽な破滅
大峡谷での惨劇と殲滅劇から一週間後。
帝都ルミナスの大通りは、未曾有の熱狂と歓声に包まれていた。
魔獣の異常発生を食い止め、無事に帰還を果たした帝国軍を一目見ようと、沿道には溢れんばかりの群衆が押し寄せている。
しかし、人々の視線が注がれる先にいるのは、出陣の際に意気揚々と白馬に跨っていた真紅の甲冑の若き総司令ではなかった。
「見ろ、あの御方だ! たった一人で一万の魔獣を一瞬で消し飛ばしたという、グランベル公爵家の末息子様だぞ!」
「あぁ……なんと美しく、神々しいお姿か。まさに女神の使い、我らが帝国の真の救世主よ!」
群衆が花吹雪を撒き散らし、狂信的なまでの歓声を送るその中心。
漆黒の外套を羽織り、白馬に静かに跨がるアレス・ヴァン・グランベルの姿があった。
彼は民衆の歓呼に対して驕ることもなく、ただ冷淡に前を見据えて手綱を握っている。
その背後には、彼に命を救われ、今やアレスを『神』と崇める古参の騎士たちが、狂暴なほどの忠誠心を宿した瞳で厳重な護衛の陣形を敷いていた。
一方。
アレスの遥か後方、凱旋パレードの最後尾に続くのは、華やかな装飾など一切ない、分厚い鉄格子で囲われた「罪人護送用」の馬車であった。
その檻の中で、ボロ布を羽織り、膝を抱えてカタカタと震えているのは、他ならぬ長男レオン・ヴァン・グランベルだった。
髪は泥と油で汚れ、かつての自信に満ちた精悍な顔つきは見る影もない。
落ち窪んだ両目は虚無を彷徨い、沿道の民衆から投げつけられる「無能な指揮官」「兵殺し」という罵声に、ただヒィヒィと悲鳴を上げて首をすくめることしかできなかった。
「やめろ……俺は、俺は帝国最強の騎士なんだ……俺が天才なんだ……アレスは無能で、俺が……」
壊れた玩具のように同じ言葉を繰り返すレオンの心は、大峡谷で己の無力さをアレスに完全に叩きつけられたあの日、物理的にも精神的にも完全に粉砕されていた。
傲慢な『獅子』のプライドは完全にへし折られ、もはや二度と立ち直ることはない。
(これで一人。……残るは、もう一人の愚か者か)
アレスは後方から微かに聞こえる兄の泣き言を耳にしながら、冷酷な笑みを唇の端に浮かべた。
帝城ルミナス、皇帝の玉座の間。
皇帝の御前で行われた論功行賞の場は、異様な空気に包まれていた。
生き残った副官バルガスをはじめとする騎士たちが、レオンの無謀極まる采配と、アレスの神業としか言いようのない絶大なる魔法の力について、一言一句違わず証言したのだ。
「――よって、レオン・ヴァン・グランベルの騎士位を剥奪し、軍籍からの永久追放を命ずる。さらに、多数の兵を無駄に死なせた罪を問い、領地の地下牢での終身幽閉とする」
皇帝の厳かな宣言が響き渡ると、玉座の間に居並ぶ貴族たちの間にどよめきが走った。
帝国の武を象徴するグランベル公爵家の次期当主が、前代未聞の不名誉な処罰を受けたのだ。
「陛下! お待ちください! それは何かの間違いです! 我が息子レオンは――」
「黙れ、クロヴィス。貴様は自らの長男の無能さを隠し、過分な地位を与え、帝国軍の兵を死地に追いやったのだ。本来ならば公爵家そのものを取り潰してもおかしくはない大罪であるぞ」
皇帝の冷ややかな一瞥に、公爵家当主であるクロヴィスは顔面を蒼白にしてその場に平伏した。
「だが……」
皇帝の視線が、クロヴィスの横に静かに佇むアレスへと移る。
「此度の絶望的な戦況を単独で覆し、帝国の危機を救ったアレス・ヴァン・グランベルの武功は、建国神話の英雄にも匹敵する。その功績に免じ、グランベル家への咎めはレオン個人の処分のみに留める」
「ははっ! 寛大なご処置、痛み入ります!」
「アレスよ。そなたには特級武功章を与え、さらに恩賞として望むものを一つ叶えよう。領地か、爵位か。何なりと申してみよ」
玉座に座る皇帝の言葉に、アレスは恭しく片膝をつき、淀みない声で答えた。
「もったいなきお言葉、恐悦至極に存じます。私は領地も金も望みません。ただ一つ……これより行われる『宮廷会議』に、特別監査役として同席する許可をいただきたく存じます」
その意外な申し出に皇帝は眉を上げたが、すぐに鷹揚に頷いた。
「よかろう。帝国の救世主たるそなたの眼力、政治の場でも大いに役立てるが良い」
論功行賞が終わり、貴族たちが玉座の間から退室していく中。
クロヴィスは額の冷や汗を拭いながら、満面の笑みを浮かべてアレスへと擦り寄ってきた。
「おお、アレス! 流石は我が息子だ! 魔力がゼロだというのは何かの間違いだったようだな! レオンは残念だが、あのような無能は放っておけばいい。これからはお前が公爵家の次期当主として、私と共に一族をさらに繁栄させるのだ!」
数日前までアレスを「汚点」「無能」と呼び、北の離れに三年も放置していた男の、あまりにも露骨な手のひら返し。
アレスは無表情のまま、擦り寄ろうとする父の手をピシャリと冷たく払い除けた。
「……気安く触れるな、クロヴィス・ヴァン・グランベル」
「なっ……ア、アレス? 父に向かってその口の利き方は――」
「父? いつから僕にそんなものがいた? 僕は三年前に一族を追放された『名を持たないゴミ』のはずだが。
それとも、都合の良い時だけ親の面を被るのが、グランベルの伝統なのか?」
絶対零度の眼光で見下ろされ、歴戦の武人であるはずのクロヴィスは、己の息子の威圧感に気圧されて一歩後ずさった。
アレスの背後には、目に見えない巨大な死神が立っているかのような、途方もない恐怖のプレッシャーが渦巻いている。
「一族を繁栄させるのは僕だ。だが、そこに『お前たち』の席はない。公爵家の実権と資産は、すでに僕が裏からすべて掌握している。お前はただの飾りだ。せいぜい、首の皮が一枚繋がっている今のうちに、泥舟の上で当主ごっこを楽しんでおくんだな」
アレスはそれだけ言い捨てると、凍りついたクロヴィスを一瞥もせず、宮廷会議の行われる大議事堂へと向かって歩き出した。
一方、宮廷の控室。
次男のギルバート・ヴァン・グランベルは、爪を噛みながら部屋を歩き回っていた。
(馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な!! レオンの部隊が全滅し、レオンが死んだ後、傷ついた公爵家を僕が一人で立て直す計画だったはずだ! なぜ、あの無能なアレスが……っ!!)
予定が完全に狂った。
アレスが単身で一万の魔獣を殲滅したなどという非現実的な報告。
そして、皇帝から直々に「英雄」として称えられた事実。
このままでは、アレスが公爵家の当主となり、自分は不要な存在として切り捨てられる。
だが、ギルバートは狡猾な笑みを浮かべて通信用の魔導具を取り出した。
(いいだろう……魔法が使えるようになったからといって、所詮は政治の裏側を知らない餓鬼だ。僕には、帝都の裏社会を牛耳る『黒梟』のガルドがついている)
ギルバートは通信器に魔力を通し、暗黒街のガルドへ暗号通信を繋いだ。
『……こちらガルド。いかがなされましたか、ギルバート様』
「ガルド! 緊急の依頼だ。アレス・ヴァン・グランベルを至急暗殺しろ! 奴は目障りだ。報酬はいくらでも払う! それと、今まで僕が公爵家の金を横領してそっちへ流した証拠となる『裏帳簿』は、すべて灰にして処分しておけ。いいな!」
通信の向こうで、ガルドが低く、押し殺したような笑い声を上げたのが聞こえた。
『……承知いたしました。証拠の隠滅と、アレス様の件。すべて“手筈通り”に進めておりますので、ご安心を。……ギルバート様は、どうか宮廷会議にて、存分に自らの功績をアピールなさってください』
「ああ、頼んだぞ。僕が公爵家の実権を握れば、お前たちにもさらなる甘い汁を吸わせてやる」
通信を切り、ギルバートは忌々しい焦燥感を拭い去るようにネクタイを締め直した。
(そうだ。アレスなど、暗殺者に寝首を掻かれて終わりだ。今日この宮廷会議で、僕は隣国『バリスア共和国』との極秘通商条約の締結を皇帝陛下に上奏する。これで僕の宮廷での地位は不動のものとなるのだ!)
己の完璧な策略に陶酔し、ギルバートは意気揚々と大議事堂の重厚な扉を開けた。
宮廷会議には、帝国の重鎮たる貴族たちと、最前列に座る皇帝の姿があった。
そして、皇帝の斜め後ろに設けられた特別席には、漆黒の外套を纏ったアレスが静かに腰を下ろしている。
議事が進み、いよいよギルバートの出番となった。
彼は堂々たる足取りで演壇に立ち、自信に満ちた声で演説を始めた。
「――以上が、バリスア共和国との新たな通商条約の骨子でございます。この条約が締結されれば、我が帝国の関税収益は大幅に増加し、北方の物流が劇的に活性化することは火を見るより明らか。どうか陛下、このギルバートの案にご裁可を!」
流暢な弁舌と、一見すると完璧に見える条約文。
多くの貴族たちが感嘆の溜め息を漏らし、皇帝も満足げに頷こうとした。
その、瞬間だった。
「――異議がある。その条約文は、帝国を内側から食い破るための『売国文書』だ」
静謐な議事堂に、氷のように冷たく、しかし絶対的な説得力を持った声が響き渡った。
アレスである。彼は特別席からゆっくりと立ち上がり、演壇のギルバートを見下ろした。
「ア、アレス……!? 貴様、政治のド素人が、僕の完璧な条約文にケチをつける気か!? 引っ込んでいろ、これは大人の――」
「第二十三項、及び第三十項の特例措置。表向きは関税の引き下げだが、この条文の抜け道を利用すれば、バリスア共和国は帝国の希少魔石を無関税で大量に密輸することが可能になる。さらに、その密輸ルートの管理権限は、すべて『ギルバート・ヴァン・グランベルの個人口座』を経由するダミー商会に一任されているな」
「なっ……!?」
ギルバートの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
なぜ、それを知っている? あの条文の抜け道は、バリスアの特使と自分しか知らない、極秘中の極秘事項のはずだ。
「で、でたらめだ!! 証拠もないくせに、僕を陥れる気か! 陛下、これは私怨による虚偽の告発です!」
ギルバートが顔を真っ赤にして喚き散らす。
だが、アレスの表情はどこまでも凪いでいた。彼は懐から、一冊の『黒い革装丁の帳簿』と、数枚の束になった暗号通信の解読記録を取り出し、演壇の机に放り投げた。
「証拠なら、ここにすべて揃っている。君がこの三年間、公爵家の領地開発費を横領して裏社会の『黒梟』へ資金洗浄を行っていた裏帳簿。そして、バリスア共和国の要人と結託し、帝国の防衛機密を売り渡す見返りとして、自身の口座に莫大な裏金を受け取っていた通信記録だ」
「あ……ああ……」
その黒い帳簿を見た瞬間、ギルバートの膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。
あり得ない。その帳簿は、ガルドに命じて処分させたはずだ。
なぜ、アレスがそれを持っている?
「バ、馬鹿な……ガルド……ガルドは僕の味方のはずだ! 奴が僕を裏切るはずがない!!」
「君は本当に、救いようのない馬鹿だな。裏社会の人間が、ただ金払いがいいだけの青二才に忠誠を誓うと本気で思っていたのか?」
アレスがパチンと指を鳴らすと、議事堂の扉が開き、王室近衛騎士に囲まれたガルド・ベイガンが連行されてきた。
「ガ、ガルド!! お前、一体どういうつもりだ!!」
ギルバートが絶叫するが、ガルドは彼を一瞥すらせず、真っ直ぐにアレスの前へ進み出て、その場で深々と土下座した。
「我が主、アレス・ヴァン・グランベル様の命により、証人として罷り越しました。……ここにいるギルバートの不正、横領、そして他国への内通。すべて事実であり、私が手引きしたものでございます」
シン、と。
大議事堂が、水を打ったような静寂に包まれた。
帝都の裏社会を牛耳る凶悪な男が、アレスを「我が主」と呼び、完全に服従している。
その事実が意味するものを理解した貴族たちは、一様に青ざめ、息を呑んだ。
「ひ、ひぃぃ……うそだ、うそだうそだうそだ!! 僕は天才だ! 宮廷の支配者になるはずだったんだ!! お前みたいな魔力ゼロのゴミに、僕が負けるはずが……っ!!」
もはや言い逃れができないと悟ったギルバートは、狂ったように髪を掻き毟り、アレスに掴みかかろうと立ち上がった。
しかし、アレスは視線を動かすことすらしなかった。
ギルバートがアレスに触れる寸前、見えない『重力の壁』に激突し、鼻骨を砕いて無様に床に転がる。
「……見苦しいぞ、ギルバート。お前が天才だと思い上がっていたその策は、すべて僕が泳がせて、お前自身の手で破滅の証拠を作らせていたに過ぎない。お前はただ、僕の手のひらの上で滑稽なダンスを踊っていただけのピエロだ」
アレスの冷酷な見下ろしに、ギルバートは恐怖で顔を痙攣させ、泡を吹いて失神した。
「近衛騎士よ。その国賊を地下牢の最下層へ叩き込め。二度と日の光を浴びさせるな」
皇帝の冷徹な命令が下り、気絶したギルバートは騎士たちにゴミのように引きずられて議事堂から連れ出されていった。
長男レオンの失脚。
次男ギルバートの破滅。
前世において、アレスのすべてを奪い、死へと追いやった二人の兄は、こうして完全なる絶望と屈辱の底へ叩き落とされた。
「……さて。邪魔な羽虫は駆除した。残るは、家の『大掃除』だけだな」
アレスは議事堂の窓から、遠くに見えるグランベル公爵邸の尖塔を冷ややかな瞳で見据えた。
名門門閥の乗っ取りと、実の父親への容赦なき引導。
下剋上の総仕上げが、今まさに始まろうとしていた。




