蹂躙の狂宴、そして無能の英雄
帝国北部、バロア山脈。
万年雪に覆われた険しい山肌を縫うように進むのは、レオン・ヴァン・グランベル率いる一万の帝国討伐軍である。
煌びやかな真紅の特注甲冑に身を包み、白馬に跨がるレオンの顔には、これから死地へ向かう軍事指揮官としての緊張感など微塵もなかった。
彼にあるのは、ただ「自分という天才が剣を振るえば、魔獣など恐るるに足らず」という根拠のない傲慢さだけである。
「レ、レオン総司令! お待ちください! これ以上の進軍は危険です!」
隊列の先頭を行くレオンへ、馬を駆け寄らせてきたのは副官を務める老騎士バルガスだった。彼の顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
「何だ、バルガス。臆病風に吹かれたか? 俺の突撃指令の邪魔をするな」
「そうではありませぬ! 斥候部隊からの報告によれば、この先の『大峡谷』に魔獣の群れが結集しているとのこと。
大峡谷は両側を切り立った絶壁に挟まれた、いわば天然の袋小路。
もし崖上から伏兵に急襲されれば、我が軍は身動きが取れず全滅します!
ここは一度平野まで後退し、陣を敷いて迎え撃つべきです!」
軍略の基礎中の基礎である。だが、戦術を一切理解していないレオンは、鼻で笑ってその進言を一蹴した。
「馬鹿め。敵が袋小路に集まっているというなら、好都合ではないか。俺が先頭に立ち、一気に大峡谷へなだれ込んで正面から叩き潰す。一匹残らず包囲殲滅だ! グランベルの武に退却の二文字はない!」
「総司令! どうか、どうかご思慮を――」
「ええい、うるさい! 俺の命令に逆らう気か、老いぼれが! 全軍、突撃態勢を取れ! 大峡谷へ突入し、魔獣どもを蹂躙しろ!!」
レオンが腰の宝剣を抜き放ち、高らかに号令をかける。
血気盛んな若き騎士たちはそれに呼応して歓声を上げたが、古参の兵士たちの顔には明らかな絶望が広がっていた。
かくして、一万の討伐軍は大峡谷へとその歩みを進めた。
両側を高さ百メートルを超える絶壁に挟まれた、薄暗い谷底。
風の音すら途絶えた不気味な静寂の中、レオンは意気揚々と馬を進める。
「ふはははっ! 見ろ、魔獣の姿など影も形もないではないか! 俺の軍の覇気におそれをなして逃げ散ったのだろう! 所詮は知能のない獣――」
レオンが勝ち誇ったように叫んだ、まさにその瞬間だった。
『――グォォォォォォォォォッ!!』
突如として、天を裂くような巨大な咆哮が大峡谷に響き渡った。
直後、空が「黒く」染まった。
いや、雲ではない。
絶壁の上から、無数の巨大な岩石が雨あられと降り注いできたのだ。
「なっ……!? 岩だ!! 防壁魔法を張れぇっ!!」
バルガスが絶叫するが、遅すぎた。
数百キロはある巨大な岩石が谷底へ直撃し、密集していた帝国軍の陣形を容赦なくすり潰していく。
人間と馬の悲鳴、肉が弾け骨が砕ける生々しい音が谷底に反響した。
それだけではない。
岩石の雨が止むと同時、崖の上から黒い奔流が滝のように雪崩れ込んできた。
オーク、オーガ、ヘルハウンド、そしてワイバーンの群れ。
本来ならば決して共闘することのない異なる種の魔獣たちが、見事な軍隊の陣形を組んで襲いかかってきたのだ。
「ば、馬鹿な!? 魔獣どもが統率されているだと!?」
さらに最悪なことに、魔獣たちの瞳は不気味な血走った赤色に染まり、口からは泡を吹いていた。
アレスが事前にばら撒かせた『狂暴化』の呪符の影響である。
恐怖も痛みも感じない狂戦士と化した魔獣たちは、槍で突かれようが腕を斬り飛ばされようが止まることなく、帝国騎士の首に噛みつき、その体を八つ裂きにしていった。
「ひぃぃっ! た、助けてくれぇっ!」
「陣形が崩壊しました! レオン様、ご決断を! 退却命令を!!」
「う、うそだ……こんな、こんなはずでは……っ!?」
レオンは馬上から、地獄絵図と化した自軍の惨状を呆然と見下ろしていた。
先程までの威勢は見る影もなく、彼の顔面は蒼白に染まり、剣を持つ手はカタカタと痙攣している。
前世において、彼が「英雄」となれたのは、アレスが事前に敵の知能の高さを看破し、大峡谷を避けて平野に『重力泥沼結界』を張り巡らせていたからだ。
自分自身の采配で動いた結果が、これである。
彼の無能さが、一万の兵を死地に叩き落としたのだ。
「レオン・ヴァン・グランベル!! 貴様が総大将か!!」
突如、戦場を震わせるような太く重い声が響いた。
魔獣の群れを掻き分け、姿を現したのは、体長が五メートルを超える巨大な黒曜石のような肌を持った異形の怪物だった。
四本の腕にそれぞれ巨大な戦斧を握り、知性を感じさせる三つの瞳がレオンをねめつけている。
今回のスタンピードを裏で操っていた特異個体、『四腕の魔獣王』である。
「ひっ……!?」
「我らの領地を荒らす人間どもめ。ここで一匹残らず肥料にしてくれる!」
魔獣王が地を蹴り、恐るべき速度でレオンへと肉薄する。
振り下ろされる四振りの大斧。
「お、おおおおおおっ! 俺を誰だと思っている! 帝国最強の騎士、レオン様だぞ!!」
恐怖から半狂乱になったレオンは、馬から飛び降り、ありったけの闘気を剣に込めて迎撃した。
彼が誇る必殺の剣技、『獅子王の牙』
――カァァァァァァァァァンッ!!
「……えっ?」
レオンの口から、間抜けな声が漏れた。
彼が全力を込めた宝剣は、魔獣王の黒曜石の肌に触れた瞬間、いとも容易く粉々に砕け散ったのだ。
前世では、アレスが裏で『極大の装甲貫通付与魔法』をレオンの剣に重ね掛けしていたため、どんな硬い魔獣でも豆腐のように切り裂けた。
だが、素のレオンの剣技など、ただの筋力任せの棒振りに過ぎない。
「軟弱な剣だ。それが貴様らの最強か?」
魔獣王の裏拳が、レオンの腹部にクリーンヒットした。
真紅の特注甲冑が紙くずのようにひしゃげ、レオンの身体は砲弾のような速度で吹き飛び、後方の岩壁に激突した。
「がはっ……!? ごはぁっ……!!」
大量の血を吐き、無様に地に伏すレオン。
肋骨が何本も折れ、立ち上がることすらできない。
「総司令っ!!」
「来るな! ひぃっ……くるな、バケモノぉ……!!」
バルガスたちが駆け寄ろうとするが、魔獣の群れに阻まれ近づけない。
レオンは這いつくばりながら、泥にまみれ、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして後ずさりした。
股間からは生温かい液体が漏れ出し、高価なズボンをシミに染めている。
恐怖、絶望、そして己の完全なる無力。
帝国最強の騎士というメッキが剥がれ落ち、そこにはただの無能で哀れな「臆病者」の素顔が曝け出されていた。
「終わりだ。死ね、人間の将よ」
魔獣王がレオンの頭上に大斧を振り上げる。
周囲の騎士たちも魔獣に押し潰され、討伐軍は完全に崩壊した。
誰の目にも、レオンの死、そして帝国軍の全滅が確定したかに見えた。
その、瞬間である。
『――空間凍結。事象固定』
天から、氷のように冷たく、しかし絶対的な支配力を持った「声」が降り注いだ。
直後、大峡谷を覆い尽くしていた魔獣たちの動きが、文字通り「ピタリ」と完全に静止した。
振り下ろされる寸前だった魔獣王の大斧も、兵士の首を噛みちぎろうとしていた牙も、空から襲いかかる岩石さえも。
まるで時間が停止したかのように、万物が空中に縫い留められたのだ。
「な……んだ、これは……!?」
「空を見ろ!! あれは……!」
生き残った騎士たちが、震える指で天空を指差した。
どんよりと曇っていた大峡谷の空を覆い尽くすほどの、巨大で複雑怪奇な銀色の魔法陣。
そこから、黒い外套を羽織った一人の青年が、まるで不可視の階段を降りるかのように、ゆっくりと宙を歩いて舞い降りてきた。
漆黒の髪。底なしの深淵を思わせる瞳。
十二歳の頃から見違えるほど成長し、圧倒的な威厳と覇気を纏ったその姿。
しかし、レオンの目には、その顔立ちに深く刻み込まれた恐怖の記憶があった。
「あ……アレス……? なぜ、お前が……魔法も使えない、一族のゴミの……お前が……」
レオンの震える声に、アレスは地上に降り立つと、小首を傾げて冷酷な笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、兄上。随分と無様な恰好じゃないか。一族の栄誉とやらを背負った総司令殿が、恐怖のあまり失禁して泥を舐めているとは」
「き、きさま……っ!! どうやって……この魔法は、お前がやったのか!?」
「他に誰がいる? あぁ、魔力ゼロの僕が魔法を使うはずがない、と? ……兄上の頭の悪さには、心底同情するよ。僕の魔力が底なしすぎて、あの欠陥品の宝玉がエラーを起こしただけだということすら、未だに気づいていなかったのか」
アレスの言葉に、レオンの顔が引き攣った。
理解が追いつかない。
だが、目の前で起きている神業のような魔法は、間違いなく目の前にいる「無能な弟」が放っているのだ。
「貴様ぁっ! 何者だ!! この術を解けぇっ!!」
魔獣王が空間凍結の重圧に逆らい、強引に四腕の筋肉を膨張させ、一歩だけ前に踏み出した。
「ほう。僕の空間束縛に力業で抗うか。特異個体というだけはある」
アレスは感心したように魔獣王を見たが、その瞳には路傍の石ころを見るような絶対的な見下しかなかった。
「だが、目障りだ。僕と兄上の感動の再会の邪魔をするな」
アレスが右手の指を軽く鳴らす。
ただ、それだけだった。詠唱もない。構えもない。
直後。
『――極地重力崩壊』
魔獣王の足元に、直径一メートルほどの漆黒の球体が出現した。
次の瞬間、常識を外れた超重力が魔獣王を襲った。
「ギャアアアアアアアアアアアアアッ!?」
断末魔の絶叫。
あれほどレオンの剣を易々と弾いた黒曜石の硬い肉体が、四本の腕が、内臓が、眼球が。
すべてが雑巾のようにねじり切られ、圧縮され、ピンポン玉ほどの大きさの肉の塊へと一瞬にして押し潰された。
ポトリ、と血肉の塊が地面に落ちる。
特異個体たる魔獣の王は、指パッチン一つで文字通り「消滅」したのである。
「あ……あぁ……」
レオンは泡を吹きそうになりながら、その光景を直視し、恐怖のあまり後退りした。
他の帝国騎士たちも、武器を落としてへたり込んでいる。
「さて、次は……周りの雑魚どもか。数が多いな。一万匹といったところか」
アレスは空中で静止している無数の魔獣たちを見渡した。
そして、冷たく澄み切った声で、地獄の宣告を下す。
『――次元斬絶・千刃』
世界から、音が消えた。
アレスを中心として、空間そのものに無数の「亀裂」が走った。
それは物理的な刃ではない。
空間と空間の境界線をズラし、そこに存在する物体を概念的に切断する、大魔導卿のみが到達し得る神域の魔法。
無音の中。
静止していた一万の魔獣たちの身体に、無数の線が走った。
ズレる。
首が。胴体が。翼が。
一拍遅れて、空間凍結が解除された瞬間。
ザシュゥゥゥゥゥゥゥッ!!
一万匹の魔獣が、一斉にサイコロ状の細切れとなって崩れ落ちた。
大峡谷の底は、一瞬にして魔獣たちの血と肉塊の海へと変貌した。
討伐軍の誰もが身動き一つできない。
ただ圧倒的な力の顕現を前に、恐怖と畏敬で呼吸すら忘れていた。
全滅の危機にあった討伐軍を救ったのは、たった一人の青年の、たった二つの魔法。
時間にして、わずか十数秒の出来事であった。
「……さて。邪魔者は片付いたな」
アレスは血の海を歩き、震えるレオンの前に立った。
泥と失禁に塗れ、哀れに泣き腫らした顔で見上げてくる兄。
「あ、アレス……お前が……助けてくれたのか……?」
レオンはすがるような瞳で、アレスの外套の裾を掴もうとした。
だが、アレスはその手を冷酷に蹴り飛ばした。
「勘違いするなよ、レオン。お前を助けたのではない。お前がどれほど無能で、傲慢で、自らの力では何もできない矮小な存在であるかを……帝国中の兵士たちの目の前で証明してやるために、ここまで足を運んでやったのだ」
「な……っ」
「今までお前が得てきた栄光、勝利、天才の称号。……すべては裏で僕が手を回し、お前に与えてやっていた紛い物だ。僕の補助がなければ、お前はただの粗大ゴミに過ぎない」
アレスの冷たい言葉が、レオンの心臓を物理的に抉るように突き刺さる。
周囲の騎士たち――特に副官のバルガスの視線が、一斉にレオンに向けられた。
その目には、かつての尊敬など微塵もない。
無謀な指揮で兵を死なせ、弟に泣きつく無能な指揮官への軽蔑と怒りだけがあった。
「お前の『帝国最強の騎士』という地位は、今日この日をもって完全に終わりだ。お前は一生、己の無力さを呪い、周囲からの嘲笑に苛まれながら、泥水をすすって生きていくんだ」
アレスはレオンを見下ろし、極上の笑みを浮かべた。
「さあ、ここからは僕の舞台だ。前座の役目、ご苦労だったな。……『無能』な兄上」
反逆の狼煙は上がった。
公爵家から追放された「落ちこぼれの末っ子」が、圧倒的な力を見せつけ「真の英雄」として歴史の表舞台に躍り出た瞬間。
アレスの冷徹なる復讐劇は、ここからさらに苛烈に、そして容赦なく、グランベル一族のすべてを灰燼に帰していくのである。




