愚者の出陣と、張り巡らされた絶望の蜘蛛の糸
アレス・ヴァン・グランベルが、一族から「無能」の烙印を押され北の離れへ追放されてから、三年の月日が流れていた。
十五歳となったアレスの背丈は伸び、少年特有の丸みは消え去り、引き締まった体躯と氷のように研ぎ澄まされた美貌を持つ青年へと成長していた。
表向きの彼は、未だに公爵家の敷地の隅で息を潜めて生きる「哀れな落ちこぼれ」である。
本館の人間は誰一人として彼を気にかけることはなく、父クロヴィスや兄たちの記憶からも、とうに消え去っていた。
唯一、老メイドのマーサだけが変わらず食事を運んできていたが、アレスは彼女の身の安全を確保するため、密かに彼女に強力な護衛魔法と認識阻害の結界を付与し、ギルバートの毒牙が及ばないように徹底した保護を施していた。
しかし、それはあくまで表の顔に過ぎない。
一歩裏社会へ足を踏み入れれば、帝都ルミナスの勢力図は、この三年間で劇的な変貌を遂げていた。
巨大暗黒組織『黒梟』を完全掌握したアレスは、前世の記憶と規格外の魔力を駆使し、瞬く間に裏社会を統合。
彼が作り出した「高純度の魔力回復薬」や「劣化しない防御魔導具」は裏ルートを通じて飛ぶように売れ、今や帝国の裏経済の四割以上を、アレス一人で牛耳るに至っていたのである。
裏の者たちは、底知れぬ魔力と圧倒的な知略で帝都の闇に君臨する名もなき支配者を、畏怖と敬意を込めて『魔導卿』と呼んだ。
帝都の地下深くに建造された、『黒梟』の新たな大本営。
黒曜石で設えられた玉座のような椅子に、アレスは足を組んで座っていた。その眼下には、首領であるガルド・ベイガンが恭しく平伏している。
「――ご報告いたします、我が主。ギルバートの奴め、この三ヶ月でさらに二千万ゴルドの領地開発費を横領し、我々のダミー商会を通じて資金洗浄を行いました。
もちろん、その金はすべて我々の金庫に収まっており、奴には精巧な偽の預金証書を渡してあります」
「ご苦労。横領の証拠となる裏帳簿、他国への機密漏洩の証拠となる暗号通信の記録、すべて完璧に揃っているな?」
「はっ。奴が宮廷で失脚した際、言い逃れができないよう、王室近衛騎士団に内部告発としてリークする手筈も整っております」
ガルドの報告に、アレスは満足げに頷いた。
この三年で、ギルバートは完全にアレスの手のひらの上で踊らされていた。
自分が裏社会を操っていると錯覚したまま、公爵家の資産を自らの手で枯渇させ、アレスの懐へ横流しし続けていたのだ。
「ギルバートの処遇については、機が熟すまで泳がせておけ。奴が一番高い場所に登り詰め、勝利を確信した瞬間に梯子を外してやる。……それよりもガルド、北方の動きはどうなっている?」
アレスが声のトーンを一段落とすと、ガルドは表情を引き締め、一枚の羊皮紙を差し出した。
「主の予測通りでございます。帝国北部の国境付近、バロア山脈において、魔獣の異常発生の兆候が確認されました。すでに近隣の村が二つ、壊滅したとの情報が入っております」
「……来たか」
アレスの口の端が、三日月のように吊り上がった。
前世においても、アレスが十五歳の頃に起きた大規模な魔獣討伐戦。
帝国北部に生息する凶悪な魔獣たちが突如として群れを成し、南下を開始するという未曾有の危機。
これに対処するため、帝国軍は大規模な討伐部隊を編成した。
そして、その討伐部隊の総指揮官に任命されたのが、当時若手筆頭として頭角を現していた長男、レオン・ヴァン・グランベルだった。
「帝国軍上層部は、今回のスタンピードを『規模は大きいが、統率の取れていない烏合の衆』と判断しているようです。そして討伐軍の総指揮官には、公爵家の威光と武を誇示するため、レオン・ヴァン・グランベルが任命されました」
「前世と、まったく同じ流れだな」
アレスは玉座の肘掛けを指先で軽く叩きながら、冷ややかに嗤った。
前世において、このスタンピードは決して烏合の衆などではなかった。山脈の奥深くに潜んでいた『特異個体』の魔獣が群れを統率し、高度な知能を持って人間軍を包囲殲滅しようとする、恐るべき軍隊だったのだ。
当時、それを事前に察知したアレスは、三徹して戦術図を描き上げ、レオンの部隊に最適な布陣を指示した。
さらには、広範囲の魔獣を足止めするための自作の『重力泥沼結界』の魔導具を持たせ、レオンを完璧な勝利へと導いたのである。
その結果、レオンは「帝国最強の英雄」としての名声を確固たるものとし、アレスは「英雄の兄を持つ幸運な無能」としてさらに影を潜めることとなった。
「だが、今回は違う。僕の戦術書も、僕の魔導具も、あいつの手元には何一つない」
アレスの漆黒の瞳に、昏い悦楽の色が浮かぶ。
自らの実力を過信し、戦術の基礎すら理解していないあの猪武者が、情報も備えもなく、統率された魔獣の群れに突っ込めばどうなるか。
結果は火を見るより明らかだった。
「ガルド。精鋭の隠密部隊を北方に走らせろ。討伐軍の進軍ルートに先回りし、魔獣の群れに『狂暴化』の呪符を密かにばら撒け。さらに、魔獣たちを誘導し、レオンの部隊が最も不利となる『大峡谷』へと誘い込むのだ」
「はっ……! しかし主よ、それをしてしまえば、レオンの部隊は文字通り全滅の危機に陥りますが……よろしいので?」
「構わない。むしろ、全滅の淵に立たせなければ意味がない」
アレスの冷酷な言葉に、百戦錬磨のガルドでさえ背筋に冷たいものを感じた。
実の兄を、そして帝国軍の兵士たちを躊躇なく死地へ叩き落とす。
その精神構造は、もはや悪魔のそれであった。
「レオンの部隊が壊滅寸前となり、兄上が無様に泣き叫び、己の無力さを呪うその瞬間。……僕が、彼らを『救って』やる」
それは慈悲などではない。
最も高いプライドを持つ男の心をへし折るためには、圧倒的な力の差を見せつけ、二度と立ち上がれないほどの絶望と屈辱を与える必要があるのだ。
兄の無能さを帝国中に知らしめ、自らが絶対的な力を持つ「真の英雄」として表舞台に躍り出るための、完璧な脚本
「さあ、愚かな兄上。せいぜい今のうちに、偽りの栄光に酔いしれておくがいい」
アレスは手元の空間を捻じ曲げ、一枚の転移魔法陣を構築し始めた。
反逆の狼煙を上げる時は、もう目前に迫っていた。
同じ頃、グランベル公爵家本館は、レオンの出陣を祝う豪奢な宴の熱気に包まれていた。
大広間には最高級のワインと料理が並べられ、帝都の貴族たちや軍の上層部が次々とレオンに祝杯を捧げている。
「レオン殿! 此度の討伐軍総指揮、真におめでとうございます! 若くしてこの大任、グランベルの武勇は帝国随一ですな!」
「はははっ、大儀である! 何、辺境の薄汚い獣どもがいくら群れようと、俺の剣の錆にしてくれるわ! 帝国騎士団の突撃を持てば、三日と掛からず蹂躙してみせよう!」
真紅の特注甲冑に身を包んだレオンは、頬を紅潮させ、傲慢な笑い声を響かせていた。
十八歳となった彼は、実力以上の地位と名声を与えられ、己を「無敵の天才」であると固く信じ込んでいる。
彼の周囲には、おべっかを使う取り巻きばかりが集まり、苦言を呈する老巧な副官の言葉など、すでに彼の耳には届いていなかった。
「兄上、油断は禁物ですよ。とはいえ、我が公爵家の権力基盤を盤石にするためにも、きっちりと武功を立ててきていただかなくては」
グラスを片手に近づいてきたのは、次男のギルバートだ。
彼もまた、裏社会の資金を使い込みながら宮廷での地位を固め、今や財務局の要職に就く一歩手前まで来ていた。
「ふん、言われるまでもない。俺が直々に剣を振るうまでもなく、部下に突撃命令を出すだけで終わる戦だ。父上も安心しておられる」
「ええ、その通りです。これでようやく、我が家から出た『汚点』の記憶も、世間から完全に消し去ることができるでしょう」
「ハッ、あんな魔力ゼロのゴミの顔など、とうの昔に忘れたわ! あいつは一生、北の離れで虫のように這いつくばって生きていればいいのだ!」
兄弟は顔を見合わせ、下劣な笑い声を上げた。
彼らは知る由もなかった。
自分たちが積み上げてきたと信じているその栄光も、権力も、すべては北の離れに潜む「無能」の手によって意図的に与えられた砂上の楼閣に過ぎないということを。
そして今、その足元に、絶対に抜け出せない底なしの罠が口を開けて待っていることを。
「……さあ、宴はここまでだ。明日の夜明けと共に、全軍を出立させる! 俺の武力で、帝国の歴史に新たな伝説を刻んでやる!」
レオンが高らかに宣言し、広間は割れんばかりの歓声に包まれた。
だが、その歓声の裏で、レオンの副官を務める白髪の老騎士だけは、青ざめた顔で報告書を握りしめていた。
(……おかしい。事前の斥候の報告では、魔獣の動きが妙に統率されている。単なるスタンピードではない。
それに、進行ルートの先にある『大峡谷』は、伏兵を置くには最悪の地形だ。レオン様はなぜ、あのようなルートを選ばれたのだ……? だが、今のあの方に進言したところで、聞く耳を持たれるはずがない……)
老騎士の嫌な予感は、この数日後、最悪の形で現実のものとなる。
華やかな宴の喧騒から遠く離れた、北の離れのあばら屋。
アレスは屋根の上に立ち、夜風に外套をはためかせながら、本館から漏れる光と騒ぎの音を冷ややかな瞳で見つめていた。
「出陣の準備は整ったようだな、兄上」
アレスの足元には、複雑な幾何学模様を描く巨大な転移魔法陣が、青白い光を放ちながら完成の時を待っていた。
前世で彼が開発した、大陸のいかなる場所へも一瞬で移動を可能とする『空間跳躍陣』
「お前が絶望の底で泣き叫ぶその瞬間まで……せいぜい、短い夢を見ているがいい」
アレスが一歩、魔法陣の中央へと足を踏み入れた瞬間、光の柱が天を突き破るように立ち上った。
次の瞬間、屋根の上には誰の姿もなく、ただ冷たい夜の静寂だけが残されていた。
復讐と蹂躙の幕開けとなる、バロア山脈の死地へと向けて――大魔導卿の圧倒的な力が、今まさに解き放たれようとしていた。




