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3/11

深淵からの来訪者、闇を統べる

アレスが「北の離れ」へ追放されてから、早くも一ヶ月の月日が流れていた。


 かつて使用人が物置として使っていたその隙間風の酷いあばら屋は、グランベル公爵家の本館からは遠く離れ、鬱蒼とした森の境界に位置している。


本館の人間が近づくことはなく、アレスは事実上、公爵家の存在から完全に消し去られていた。


「坊ちゃん……本日の夕食をお持ちしました。このような、粗末なものしかご用意できず……本当に、申し訳ございません……」


 盆に乗せられた固い黒パンと、具の少ない薄いスープ。


それをテーブルに置きながら、老メイドのマーサが声を詰まらせた。


 彼女は公爵家の冷遇命令に逆らい、唯一アレスの身の回りの世話を焼きにやって来る恩人であった。


前世において、彼女はこの優しさが仇となり、ギルバートに目をつけられて家から放逐され、悲惨な最期を遂げている。


「気にするな、マーサ。食事など生命活動を維持できればそれでいい。それに、静かで悪くない環境だ。本館の騒々しい連中の顔を見ずに済むからね」


 アレスは本を持ち上げたまま、淡々と答えた。その声には一切の悲壮感も、怒りすらも滲んでいない。


あまりにも達観した十二歳の少年の姿に、マーサは余計に胸を痛め、涙を拭いながら部屋を後にした。


 マーサの足音が完全に遠ざかったのを確認すると、アレスは手元の本を閉じた。


 一ヶ月間、ただ大人しく幽閉生活を送っていたわけではない。


この北の離れを拠点とするため、地下深くの岩盤を魔法でくり抜き、広大な隠し工房と魔力炉をすでに構築し終えていた。


 さらに、前世の記憶を頼りに帝都の勢力図や経済状況を再確認し、自身の復讐と覇道において最も効率的な「手駒」の選定を済ませている。


「さて……今夜あたり、刈り取りに行くとしようか」


 アレスが指をパチンと鳴らすと、部屋の四隅に配置された見えない魔力核が起動し、完璧な結界が部屋を包み込んだ。


外部からの物理的干渉、魔力探知、音響、さらには熱源探知までを完全に遮断する『絶対秘匿領域』である。


 そして次の瞬間、アレスの足元に広がる影が、底なしの泥沼のように波打ち始めた。


『――空間跳躍テレポート。座標指定、帝都第七区、地下水脈管理路』


 アレスの身体が、音もなく影の底へと沈み込んでいく。


 残されたあばら屋の部屋には、誰もいない静寂だけが横たわっていた。


      


 帝都ルミナスの華やかな表通りから幾重にも外れた、光の届かぬ暗黒街。


 その最深部に位置する廃れた地下神殿跡地こそが、帝都の裏社会を牛耳る巨大暗黒組織『黒梟ブラックオウル』の本拠地であった。


 非合法な薬物、人身売買、魔獣の密輸、さらには貴族の暗殺請負まで、あらゆる汚れ仕事を取り仕切るこの組織は、莫大な資金力と凶悪な武力によって独自の帝国を築いている。


 神殿の最奥にある豪奢な執務室では、『黒梟』の首領であるガルド・ベイガンが、革張りの椅子に深く腰掛けながら葉巻を燻らせていた。


 顔の右半分に醜い火傷の痕を持つガルドは、元々帝国軍の暗部で非道な任務をこなしていた凄腕の元軍人である。彼自身が高い魔力を持つ魔戦士であり、その周囲には常に十人を超える一騎当千の暗殺者が影のように控えていた。


「……ギルバート・ヴァン・グランベルからの依頼金、確かに受け取りました。隣国の有力商人に関する偽造証拠の作成と、護衛の排除。手筈通りに進めております」


 黒装束の部下が、金貨の詰まった皮袋をデスクに置きながら報告する。


「ふん。あの公爵家の若造め、偉そうな口を叩くが、所詮は裏の力なしでは宮廷の権力闘争も勝ち抜けん小童よ。


まあいい、金払いだけは最高だからな。適当に飼い慣らして、公爵家の内部情報と資産をたっぷりと吸い上げさせてもらおう」


 ガルドが下劣な笑みを浮かべた、まさにその時だった。


「――飼い慣らす? ギルバートごときを飼い慣らしたつもりでいい気になるとは、ずいぶんと安上がりな自尊心だな」


 執務室の空気が、唐突に凍りついた。


 重厚な鉄の扉は閉ざされたままである。外部からの侵入を知らせる警報魔導具も一切反応していない。


 だが、部屋の中央――先ほどまで誰もいなかった空間に、一人の少年が立っていた。


 黒髪に漆黒の瞳。夜の闇をそのまま切り取って仕立てたかのような、上質な外套を羽織った十二歳の少年。


 アレス・ヴァン・グランベルである。


「な、貴様……っ!? どこから入り込んだ!」


 ガルドが怒号を上げると同時、部屋の暗がりから十人の暗殺者たちが一斉に姿を現した。


彼らは一切の躊躇なく、毒の塗られた短剣と魔力刃を構え、アレスの急所へと殺到する。


 常人であれば、悲鳴を上げる間もなく細切れにされている絶対の死地。


 だが、アレスは表情一つ変えることなく、ただ「視線」を動かした。


『――重力支配グラビティ・ルーラー、局所展開。質量係数、百倍』


 ズドォォォォォォンッ!!


 轟音。


 神殿の分厚い石床がすり鉢状に粉砕され、飛びかかってきた十人の暗殺者たちが、見えない巨大な鉄槌で叩き潰されたかのように床に張り付けられた。


「あ、がっ……!?」「ぐ、ぎぃっ……!」


 内臓が押し潰され、骨が軋む不気味な音が部屋に響き渡る。


彼らは指一本動かすことすらできず、口から血泡を吹いて一瞬で戦闘不能に陥った。


 詠唱もない。動作すらない。ただ魔法の名を心中で唱えただけで、一級の暗殺者たちがゴミのように制圧されたのだ。


「な……ば、馬鹿な……!? 無詠唱でこの威力の重力魔法だと!? 貴様、何者だ!」


 ガルドは葉巻を取り落とし、椅子から跳ね起きた。彼の手にはすでに、凶悪な魔力を帯びた大剣が握られている。


「名乗る必要はない。だが、そうだな……これからお前たちの『あるじ』となる存在だ、とだけ言っておこう」


 アレスはゆっくりとガルドへ歩み寄る。その足取りは、まるで庭を散歩する貴族のように優雅で、一切の隙がなかった。


「ふざけるな、ガキが! 俺を誰だと思っている! 『黒梟』のガルド様だぞ!!」


 ガルドは大剣に限界まで魔力を込め、空間ごと断ち斬るほどの苛烈な一撃をアレスの脳天へと振り下ろした。


帝国騎士団の小隊長クラスすら一撃で両断する、彼の手負いの必殺剣。


 しかし、アレスはそれを避けることすらしなかった。


 ただ、大剣の刃がアレスの頭頂部に触れる寸前――カキィィンッ!という甲高い金属音が鳴り響き、大剣がピタリと停止した。


 アレスの頭上には、幾何学模様を描く極小の多角形防壁が、わずか数ミリの隙間を開けて展開されていた。


「な……斬れない……!? 俺の『魔断剣』が、防御魔法の薄皮一枚貫けないだと!?」


「力みが過ぎる。魔力の出力にばかり気を取られ、刃の先端に魔力が収束しきっていない。三流の剣撃だ。前世のレオンの剣の方が、まだ少しはマシだったな」


 アレスがため息交じりに呟いた瞬間、ガルドの手から大剣が弾け飛び、凄まじい衝撃波が彼の巨体を吹き飛ばした。


 背後の石壁に激突し、血を吐きながら崩れ落ちるガルド。


「がはっ……! ば、化け物め……っ!」


「さて、無駄な抵抗は終わったかな。終わったのなら、少し話をしよう。ガルド・ベイガン」


 アレスは床に倒れ伏すガルドの前に立ち、見下ろした。その瞳は、虫ケラを観察するような冷酷な光を放っている。


「お前たちが宮廷の次男坊……ギルバートから毎月金を受け取り、他国の要人暗殺や証拠捏造を請け負っていることは知っている。さらに、ギルバートが公爵家の領地開発費を横領し、それをマネーロンダリングしてこの組織に流し込んでいることもな」


「……っ!? なぜ、それを……!」


 ガルドの顔が驚愕に引き攣った。それは『黒梟』の幹部と、ギルバート本人しか知り得ない最高機密だった。


「なぜ知っているかなど、どうでもいい。重要なのは、その『横領と他国への情報漏洩の決定的な証拠』となる裏帳簿を、お前が自分の保身のために、この執務室の机の裏に隠し持っているという事実だ」


 アレスが指を弾くと、ガルドのデスクが木っ端微塵に粉砕され、隠し引き出しの中から一冊の黒い革装丁の帳簿が宙に浮かび上がり、アレスの手元へと引き寄せられた。


 前世において、アレス自身がギルバートの調査を行った際に突き止めていた事実である。


当時は公爵家の体面を守るため、アレスが裏で密かに処理して隠蔽した。


だが今世において、これはギルバートを社会的に抹殺するための極上の「劇薬」となる。


「あ……あぁ……」


 最大の切り札をあっさりと奪われ、ガルドは完全に戦意を喪失した。


 目の前にいるのは、ただの子供ではない。底知れぬ魔力と、自分たちのすべてを見透かす知略を持った、人外の怪物だ。


「ガルド。僕には資金と、手足となって動く暗部の組織が必要だ。お前をこの場で消し炭にして、新しい首領を据えてもいいのだが……一から組織を再構築するのは少々手間なのでね。特別に、選択肢を与えてやろう」


 アレスは帳簿を外套の内側にしまい込みながら、冷たい声で宣告した。


「今ここで僕に忠誠を誓い、組織の全権と資産を明け渡すか。それとも、この場で部下もろともミンチになって死ぬか。……三秒だけ待ってやる」


「さん、に――」


「したがう!! 従います!! どうか、命だけは……っ!!」


 ガルドは無様に床に額を擦りつけ、泥水をすするような声で命乞いをした。裏社会で恐れられた「狂犬」の面影は、そこには微塵もなかった。


「……賢明な判断だ」


 アレスはガルドの頭を踏みつけ、彼の魂の奥底へ向けて、強固な『絶対隷属の呪印スレイブ・バインド』を刻み込んだ。


これでガルドは、アレスに害意を抱いた瞬間に脳が焼き切れて死ぬ。


「今日から、お前たちの主は僕だ。僕の命令は絶対であり、逆らうことは許されない。

僕の意に沿う限り、お前たちには更なる富と力を与えてやる。

だが、少しでも役に立たないと判断すれば、その瞬間に存在を消去する」


 踏みつけられたまま、ガルドはガチガチと歯の根を鳴らして震え上がった。


「まずは、ギルバートからの依頼を引き続き受け続けろ。そして、奴が公爵家の金をどれだけ不正に流しているか、すべて記録し、証拠を固めろ。……奴が一番高い場所へ登り詰めた瞬間に、その梯子を根元から叩き折るためにな」


 アレスの唇に、三日月のような残酷な笑みが浮かぶ。


「承知……いたしました……。我らが主、『魔導卿』様……」


 無能として一族から追放された名門の末っ子は、こうして帝都の闇を完全に掌握した。


 冷酷なる知略と圧倒的な力が絡み合い、愚かな兄たちと腐敗した家門を絶望の底へと引きずり下ろすための完璧な罠が、今、静かにその口を開いたのである。

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