無能の烙印、そして反逆の産声
グランベル公爵家本館、中央大広間。
天井には豪奢なシャンデリアが吊るされ、壁には歴代当主が討ち取った魔獣の剥製や、王家から賜った武具が所狭しと飾られている。
帝国の武を象徴するこの空間は、他者を威圧するためだけに設計されたかのような重苦しい空気に満ちていた。
重厚な両開きの扉を抜け、アレスが広間へ足を踏み入れると、冷ややかな視線が一斉に突き刺さった。
「遅いぞ、アレス。主役が最後に登場するとは、随分と偉くなったものだな」
大理石の床をブーツで鳴らしながら、皮肉たっぷりに口を開いたのは長男のレオンだった。
燃えるような赤髪に、筋骨隆々とした体躯。まだ十五歳でありながら、すでに騎士団で頭角を現している彼は、グランベルの次期当主として周囲から期待を一身に集めている。
「申し訳ありません、兄上。少し体調が優れず、身支度に手間取ってしまいました」
アレスは深々と頭を下げ、卑屈な声音を作って謝罪した。
前世の彼であれば、この威圧的な態度に萎縮していただろう。だが、今の彼の中にあるのは、氷のように冷たく澄み切った殺意だけだ。
数年後、この傲慢な兄が戦場でどれほど無様な醜態を晒すか、アレスは知っている。
すべては自分が裏で戦術を組み、敵を誘導してやらなければ何もできない、張り子の虎に過ぎないということを。
「ふん。今日はお前の人生を決める『魔力判定の儀』だというのに、自覚が足りないのではないか? まったく、誰に似たのやら」
ソファーに深く腰掛け、優雅に紅茶を傾けながら冷笑を浮かべたのは、次男のギルバートだ。
金糸の髪を几帳面に撫でつけた彼は、十四歳にしてすでに宮廷文官の見習いとして出入りを許されている。
その怜悧な顔立ちの裏に、どれほど陰湿で腐りきった性根が隠されているか、アレスは嫌というほど味わってきた。
(自覚が足りない、か。……まったくその通りだ。お前たちは、自分がどれほど無力で無能な存在か、死ぬ直前まで自覚できなかったのだからな)
アレスは心中で嘲笑しながらも、顔には一切出さず、ただ伏し目がちに立ち尽くした。
「――御託はいい。さっさと始めろ」
広間の最奥、一段高くなった玉座のような椅子から、地を這うような低い声が響いた。
グランベル公爵家当主、クロヴィス・ヴァン・グランベル。
帝国最強の武人として名を馳せる父の眼光は、実の息子に向けるものとは到底思えないほど、冷徹で無機質だった。
彼にとって子供とは、家門の繁栄を盤石にするための「道具」でしかない。
「はっ。それではアレス様、こちらへ」
クロヴィスの言葉を受け、神殿から派遣されてきた神官が進み出た。
広間の中央には、美しい細工が施された銀の台座が置かれ、その上には人間の頭ほどある透明な宝玉が鎮座している。
王家が管理する国宝級の魔道具、『女神の瞳』。
対象者が触れることで、体内に宿る魔力の「総量」と「属性適性」を可視化するアーティファクトである。魔力が多ければ多いほど宝玉は眩く輝き、属性に応じて色を変える。
(懐かしいな。前世の僕は、ここで人生を狂わされた)
アレスは静かに宝玉の前へと歩み寄った。
前世における十二歳のあの日。アレスがこの宝玉に触れた瞬間、彼の内に秘められた常軌を逸した密度の魔力が一気に流れ込み、宝玉の測定限界を突破してしまった。
結果、測定器はショートを起こして光を失い、「魔力ゼロ」という誤った判定を下したのだ。
だが、今の彼には大魔導卿として極限まで研ぎ澄まされた魔法技術と、完璧な魔力コントロール能力がある。
前世のように、無自覚に魔力を暴走させるような真似はしない。
今回は、意図的に測定器を欺く。
「さあ、両手を宝玉に添え、心を無にして祈りを捧げてください」
神官に促されるまま、アレスはゆっくりと両手を宝玉に置いた。
瞬間、宝玉が微かに脈動し、アレスの体内から魔力を吸い上げようと干渉してくる。
(……浅い。こんな旧式かつ原始的な術式で、僕の魔力の深淵を覗き込もうなどと、片腹痛い)
アレスは宝玉の内部に構築されている術式を一瞬で解析した。
魔力を吸い上げ、光の屈折率に変換する単純な構造。アレスは自身の広大な魔力海を完全に遮断し、その表面に「魔力が一切存在しない」という精巧なダミーの波長を被せた。
さらに、宝玉の中核術式に極小の魔力針を打ち込み、光の放出機能を完全に麻痺させる。誰にも感知できない、神業と呼ぶべき緻密な術式の書き換え作業。時間にして、わずか一秒未満の出来事だった。
――結果。
宝玉は光るどころか、本来の透明な輝きすら失い、まるでただの泥石のようにどんよりとした濁った灰色へと変貌した。
「……なっ!?」
神官が素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。
何度宝玉を見直しても、測定器を軽く叩いてみても、灰色のままだ。
「し、神官殿。これは一体、どういうことだ?」
クロヴィスが苛立たしげに問う。
「こ、これは……信じられません。魔力が極端に低い平民であっても、微弱な光は放つはず。完全に光を失うなど……過去の文献にも数例しか記載がありません。すなわち……」
神官はゴクリと唾を飲み込み、震える声で宣告した。
「アレス様の魔力適性は……『完全にゼロ』。魔法を使うための器官が、生まれつき欠落しておられるようです」
シン、と。
広間が静まり返った。
やがて、その沈黙を破ったのはレオンの下品な爆笑だった。
「ははっ! はははははっ! ゼロだと!? グランベルの血を引いておきながら、魔法が一切使えないだなんて、前代未聞の欠陥品じゃないか!」
「やれやれ……無能だとは思っていましたが、まさかこれほどとは。家門の恥にも程がありますね。存在自体がグランベルの汚点だ」
ギルバートもまた、心底軽蔑したような瞳でアレスを鼻で笑う。
「……アレス」
玉座から立ち上がったクロヴィスの声は、絶対零度の吹雪のように冷酷だった。
彼はゆっくりとアレスに近づき、その眼下で平伏する息子をゴミでも見るかのように見下ろした。
「我がグランベル家は、力こそがすべて。魔力を持たぬ者に、我が家門を名乗る資格はない。……貴様は今日この瞬間をもって、公爵家直系としてのあらゆる権利を剥奪する。本館への立ち入りも禁ずる。北の離れにある使用人棟で、死ぬまで息を潜めて生きろ」
それは事実上の「追放」宣告だった。
名門貴族の末弟から、路傍の石ころ以下の存在への転落。
しかし、アレスはその処分を待っていた。
「……はい、父上。グランベルの血を汚したこと、深くお詫び申し上げます」
アレスは床に額を擦りつけながら、震える声で答えた。
だが、その床に隠された彼の顔には、狂気すら孕んだ歓喜の笑みが張り付いていた。
(完璧だ。これで僕の自由を縛るものは、何一つなくなった)
前世では、この後も何とか家族に認められようと、本館の図書室に通い詰め、兄たちに必死に尽くした。
だが今世では、そんな無駄な真似は一切しない。
完全に捨てられ、放置された「北の離れ」という隔離環境。
監視の目さえ届かないその場所こそ、アレスが裏の覇権を握るための、最高の絶対領域となるのだ。
その日の夜。
冷たい隙間風が吹き込む北の離れのあばら屋で、アレスは一人、静かに瞑想していた。
粗末なベッドと、ガタのきた机しかない狭い部屋。
だが、アレスが指先を軽く鳴らした瞬間、部屋の空間が「歪んだ」。
『――多重結界展開。空間遮断、音紋秘匿、魔力探知阻害』
音もなく展開されたのは、帝国最高峰の魔導師数人がかりで何日もかけて構築するレベルの、絶対防壁魔法だった。
詠唱破棄、かつ無動作での発動。十二歳の子供ができる芸当では絶対にない。
「さて……まずは身体のチューニングからだな」
アレスはゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。
その瞬間、彼の体から押し留められていた魔力が、物理的な質量を伴って爆発的に膨れ上がった。
ドクン、ドクンと心臓が脈打つたびに、常人の数万倍にも達する濃密な魔力が部屋中を満たし、重力すらも捻じ曲げていく。
空間が悲鳴を上げ、パキパキとひび割れるような音が結界の内部だけで鳴り響く。
「ふむ。肉体が未成熟な分、出力は前世の全盛期に比べれば三割程度か。だが、魔力の純度と演算速度はむしろ向上しているな。『クロノスの灰』による時間遡行の副産物か」
アレスは虚空に指先を走らせた。
そこには、光の糸で紡がれた複雑怪奇な魔法陣が瞬時に構築されていく。
前世で彼が開発した、広域情報収集網『千里眼』の術式である。
(これからの数年で、下準備を完璧に整える。レオンの初陣となる魔獣討伐戦までに、莫大な資金と手駒が必要だ)
標的はすでに決まっている。
帝都の裏社会を牛耳り、人身売買や非合法な魔道具の密輸で莫大な富を築いている巨大暗黒組織、『黒梟』
前世ではギルバートが裏で癒着し、彼らの資金源となっていた組織だ。
「悪いが、お前たちの資産と組織網は、僕の復讐のために有効活用させてもらうぞ」
アレスの漆黒の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められた。
無能な落ちこぼれとして一族から追放された少年は今、誰にも知られることなく、帝国全土を呑み込むほどの巨大な闇の王として、静かに、そして確実に産声を上げたのである。




