断頭台の天才、十年の時を巻き戻す
冷たい雨が、容赦なく肌を叩いていた。
灰色の空から降り注ぐ氷雨は、石畳にこびりついた血の臭いを洗い流すことはなく、むしろこの処刑場に漂う鉄の匂いをより一層際立たせていた。
「――罪人、アレス・ヴァン・グランベル。貴様には魔族と内通し、我が神聖なる帝国に害をなそうとした大逆罪が言い渡されている。最後に言い残すことはあるか?」
無機質な執行官の声が響く中、枷を嵌められ、泥だらけの石畳に膝をつかされている少年――アレスは、静かに顔を上げた。
視線の先には、豪奢な天幕の下でワイングラスを傾ける二人の男の姿があった。
帝国の英雄と讃えられる長男、レオン。
宮廷の若き重鎮としてもてはやされる次男、ギルバート。
アレスにとって、血の繋がった兄たちである。
「……ふん、無能な末弟め。最後まで家門のツラ汚しだったな」
「気にするな、兄上。公爵家の汚点は今日、ここで完全に消滅する。すべてはグランベルの栄誉のためだ」
二人の声は、雨音に紛れることなくアレスの耳に届いた。
その言葉を聞いた瞬間、アレスの腹の底から、どす黒い感情がマグマのように込み上げてきた。
(家門のツラ汚し、だと……?)
アレスは心中で血を吐くように嗤った。
剣の才能にしか恵まれず、戦術の『せ』の字も理解できなかったレオンに、百戦錬磨の戦術書を与え、無敗の軍隊を指揮させたのは誰だ。
弁が立つだけで内政の知識など皆無だったギルバートに、隣国との交渉材料を揃え、政策の基盤を作り上げたのは誰だ。
他でもない、このアレスである。
12歳の『魔力判定の儀』において、アレスの魔力密度があまりにも高すぎたため、旧式の魔力測定器は数値を読み取れず「ゼロ」と判定した。それ以来、父クロヴィスをはじめとする家族全員から「落ちこぼれ」「無能」と蔑まれてきた。
それでもアレスは、家族を恨まなかった。自分が裏方に徹し、兄たちを輝かせれば、いずれ一族は盤石となり、ひいては人類の脅威である魔王軍を打ち倒す力になると信じていたからだ。
アレスは日夜、自身の規格外の魔力を隠しながら研究に没頭し、数々の魔導具や戦術を開発しては「兄たちの功績」として世に送り出してきた。
だが、その結果がこれだ。
兄たちは、自分たちが本当は無能であることを誰よりも理解していた。
だからこそ、すべてを知り、すべてを操るアレスの存在が恐怖へと変わったのだ。
彼らは結託し、アレスが研究のために収集していた魔族の資料を「内通の証拠」としてでっち上げ、実の弟を売った。
公爵家当主である父も、それを黙認した。いや、むしろ好都合とばかりに処刑書にサインをしたのだ。
「……愚か者どもめ」
アレスの乾いた声が、雨の降る処刑場に小さく落ちた。
「何か言ったか、罪人!」
「いいや……ただの独り言だ。だが、お前たちは一つだけ計算違いをしている」
アレスはゆっくりと立ち上がろうとした。
重い魔封じの枷が手足に食い込むが、彼の眼光は処刑を待つ罪人のそれではなく、圧倒的な捕食者の瞳だった。
「僕が、この程度の事態を予測せずに、ただ黙って首を差し出すとでも思ったか?」
「なっ……貴様、何を――!」
アレスの口元が三日月のようにつり上がる。
次の瞬間、アレスの心臓の奥底に埋め込まれていた『何か』が、脈動を開始した。
『――術式起動。事象固定解除。時間軸逆行プロセス、開始』
アレスが自らの魂と命を代償に、十年の歳月をかけて密かに完成させていた神話級の禁忌魔導具。
名を、『クロノスの灰』。
因果律をねじ曲げ、使用者の精神と魔力のみを過去の肉体へ上書きするという、神の領域を侵犯する究極の時空間魔法である。
「な、なんだこの光は!? 執行官! 早くその首を落とせ!!」
「ひぃっ! か、枷が……魔封じの枷が、溶けていく……!?」
アレスの全身から、眩いばかりの銀色の光が奔流となって噴き出した。
それは雨を蒸発させ、石畳を粉砕し、周囲の空間そのものを歪ませていく。
天幕の下でふんぞり返っていた兄たちが、見苦しく悲鳴を上げて逃げ惑う姿が見えた。
(あぁ……実に滑稽だ。英雄の仮面が剥がれれば、所詮はその程度の矮小な人間)
アレスの視界が白く染まっていく中、彼の心はかつてないほどの冷徹な静寂に包まれていた。
(僕は間違っていた。愚か者に力を与えても、世界は救われない。無能はどこまで行っても無能であり、裏切り者は息を吐くように裏切る)
処刑人の振り下ろした大斧がアレスの首に届く直前、世界は完全に静止した。
雨粒が空中に留まり、兄たちの歪んだ表情が彫像のように固定される。
(――ならば、次は僕自身がすべてを奪う)
誰にも頼らない。誰の影にも隠れない。
僕を蔑み、利用し、あまつさえ殺そうとしたあのゴミ共を、完璧な絶望の底に叩き落としてやる。
一族を滅ぼし、実権を握り、僕の前に立ち塞がるすべての敵――人間だろうが魔王だろうが――すべてをこの手で蹂躙し、灰燼に帰す。
(待っていろ、レオン、ギルバート、そして……父上。最高の地獄を、プレゼントしてやる)
アレスの意識は、逆巻く時間の激流の中へと呑み込まれていった。
「……坊ちゃん。アレス坊ちゃん。朝でございます。起きてくださいませ」
聞き覚えのある、しかし酷く懐かしい声で、アレスは目を覚ました。
パチリと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、質素な天蓋のないベッドと、石造りの冷たい壁。
グランベル公爵家にある、使用人部屋と大差ない末っ子の自室だった。
「……ここは」
「いかがなさいましたか? 酷く汗をかいておられますが。悪夢でも?」
心配そうに覗き込んでくるのは、初老のメイド、マーサだった。彼女はアレスが処刑される数年前、ギルバートの陰謀によって公爵家を追放され、野垂れ死んだはずの恩人である。
「マーサ……」
アレスは起き上がり、自分の両手を見つめた。
小さい。傷一つない、子供の手だ。
急いでベッドから降り、部屋の隅にある姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、黒髪に漆黒の瞳を持つ、線の細い少年。間違いなく、12歳頃の自分自身の姿だった。
(成功……したのか。『クロノスの灰』は、完璧に機能した)
心臓の鼓動が早くなるのを抑えきれない。
体内を巡るマナの感覚を確かめる。12歳の未成熟な肉体ではあるが、魂に刻み込まれた前世の超絶的な魔力回路は、そのままこの体に引き継がれていた。
一息吐くだけで、周囲の空間の魔力がアレスの意思にひれ伏す感覚。
紛れもない、大魔導卿としての『最強の力』が、確かにある。
「坊ちゃん? お体の具合でも悪いのですか? 本日は、大切な『魔力判定の儀』の日でございますよ。
クロヴィス旦那様も、レオン様もギルバート様も、本館の広間でお待ちです」
マーサの言葉に、アレスはピタリと動きを止めた。
(魔力判定の儀……今日か)
アレスの唇から、自然と冷酷な笑みがこぼれ落ちた。
十年前の今日。ここで旧式の測定器が破裂したことで、アレスは魔力ゼロの無能という烙印を押された。
前世では、自分が無能ではないことを証明しようと必死になった。
兄たちに認められたくて、裏で必死に努力し、彼らに知識と力を献上した。
「……あぁ、そうだったね。僕の、人生が決まる大切な日だ」
アレスは鏡の中の自分に向かって、冷たく囁いた。
今世では、認められる必要など欠片もない。
むしろ、好都合だ。彼らが僕を「無能」と見下し、警戒を解いてくれるのなら、これほど裏で動きやすい環境はない。
「マーサ、着替えを手伝ってくれるか。兄上たちを、お待たせするわけにはいかないからね」
アレスの纏う空気が、先程までの子供のそれとは完全に異質のものに変わっていた。
まるで深淵を覗き込むような漆黒の瞳に、マーサは一瞬息を呑んだが、すぐに頭を下げた。
「は、はい。すぐにご用意いたします」
着替えを済ませ、本館への長い廊下を歩きながら、アレスは頭の中でこれからの計画を組み立てていた。
まずは今日の儀式。前世通り、いや、前世以上に完璧に「魔力ゼロのゴミ」を演じ切ってやる。
そして数年後、レオンが初陣で失態を犯すあの『魔獣討伐戦』。あそこで彼を完全に叩き潰し、僕が表舞台に立つ最初の足がかりとする。
「無能として虐げられるのも、あと数年の辛抱だ」
廊下の窓から見える、グランベル公爵家の広大な領地。
前世では守ろうとしたこの景色を、アレスは氷のような冷徹な瞳で見下ろした。
「せいぜい今のうちに、偽りの栄光を謳歌しておくことだ、兄上。……お前たちの築き上げたすべてを根こそぎ奪い、絶望の泥水で溺れさせてやる」
やり直しの機会を得た不遇の天才は、静かに、そして確実に、復讐と覇道への第一歩を踏み出した。
これは、一人の少年が血の分かれた一族を地獄へ送り込み、世界に君臨する絶対の存在――真の英雄へと至る、容赦なき反逆の記録である。




