魔王の絶望、そして世界を統べる絶対者
数十トンもの重量を誇る魔王城・玉座の間の大扉が、轟音と共に紙屑のように吹き飛んだ。
舞い散る瓦礫と黒煙を悠然と掻き分け、漆黒の外套をはためかせた青年――アレス・ヴァン・グランベルが、ゆっくりと玉座の間へと足を踏み入れる。
そこは、人間の生存を根底から拒絶する空間だった。
大気中には高濃度の瘴気が満ち、常人であれば一呼吸しただけで肺が腐り落ち、全身の血液が沸騰して死に至るだろう。
広大なホールの壁面には、これまでに魔王軍が屠ってきた無数の人間たちの頭蓋骨が、悪趣味な装飾として埋め込まれている。
そして、その最奥。
禍々しい黒炎を纏う骸骨の玉座に、深く腰を下ろしている一つの影があった。
「――ほう。我が絶対防衛結界を破り、六魔将を退けてここまで辿り着く人間が存在するとはな。千年の時を生きてきたが、これほどの驚きは久方ぶりだ」
地鳴りのような、聞く者の魂を直接震わせる重低音の声。
彼こそが、魔族の頂点にして人類最大の脅威。
世界を絶望の底に陥れてきた絶対悪、魔王ヴァルヴァドスであった。
漆黒の六枚羽根を背に生やし、頭部にはねじれた三本の角。
その三つの紅い瞳は、深淵の闇そのものを宿しているかのように底知れない魔力を放っていた。
「驚き、か。それは奇遇だな。僕も今、酷く驚いているところだ」
アレスは歩みを止めず、玉座に向かって真っ直ぐに進みながら冷ややかに嗤った。
「かつて人類を滅亡の淵まで追いやった魔王様が、随分と矮小で、脆弱で、取るに足らない『ただの魔力溜まり』だったことにね。……これなら、道端の石ころを蹴り飛ばすのと大して労力は変わらない」
「……何?」
魔王ヴァルヴァドスの三つの瞳が、僅かに細められた。
玉座の間を満たしていた重苦しい空気が、一瞬にして爆発的な殺気へと変貌する。
空間そのものが魔王の怒りに呼応し、ビリビリと悲鳴を上げた。
「ふん。少しばかり魔術の心得があるからと、随分と思い上がった小童だ。貴様が六魔将をどうやって倒したかは知らんが、奇策や偶然が通用するのはそこまでだ。我と奴らとでは、存在している『次元』が違うということを教えてやろう」
魔王が玉座に座ったまま、右手を軽く振るった。
ただそれだけの動作で、大気中の瘴気が極限まで圧縮され、巨大な漆黒の刃となってアレスへと放たれた。
『黒炎断頭刃』
かすっただけで魂まで焼き尽くされる、魔王の絶対的な一撃。
それが、音速を超えてアレスの首筋へと迫る。
しかし。
アレスは瞬き一つせず、迫り来る黒炎の刃に向かって、ただ「歩き続けた」だけだった。
――パツンッ。
まるで、シャボン玉が弾けるような呆気ない音。
魔王の放った必殺の刃は、アレスの身体に触れる数メートル手前で、目に見えない何かに衝突し、文字通り一瞬で霧散したのだ。
「……む?」
「次元が違う? ああ、その通りだ。お前と僕とでは、存在している次元が違う」
アレスが指先を軽く鳴らすと、玉座の間を埋め尽くしていた致死の瘴気が、まるで暴風に吹き飛ばされるように一掃され、清浄な空気へと入れ替わった。
「な、何をした……!? 我が放った黒炎を、無詠唱で相殺しただと?」
「相殺などしていない。僕の周囲には常に『空間断層』が展開されている。
お前の程度の低い魔力攻撃など、僕の座標に干渉することすらできない。……次元が違うと言ったのは、お前ではなく『僕』の方だぞ、魔王」
アレスの冷酷な言葉に、魔王ヴァルヴァドスの顔から余裕の笑みが完全に消え失せた。
千年の統治において、自らの攻撃が無効化されたことなど一度たりともない。
目の前にいる人間の規格外の力に、魔王は本能的な警戒心を抱き、ついに玉座からゆっくりと立ち上がった。
「……よかろう。久々に、我自らが全力で羽虫を叩き潰してやる。その身の程知らずな傲慢ごと、虚無の彼方へ消え去るがいい!」
魔王の全身から、天を突くほどの莫大な漆黒の魔力が噴出した。
六枚の翼が大きく広がり、魔王城そのものが激震を始める。
玉座の間の空間がグニャグニャと歪み、物理法則が崩壊していく。
『――開け、絶望の深淵。終焉の虚無領域!!』
魔王が真の力を解放し、世界そのものを自分に都合の良い法則で塗り替える『固有結界』を展開した。
周囲の景色が完全に消失し、光の届かない絶対の闇の空間へとアレスは引きずり込まれた。
「クハハハハッ! ここは我が支配する虚無の世界! 光も、音も、時間すらも我が意のまま! ここで我に抗うことは、世界の理そのものに抗うことと同義だ! 死ね、人間!!」
全方位から、不可視の概念的破壊がアレスを襲う。
それは物理的な攻撃ではない。
『存在そのものを消去する』という、防ぐことのできない絶対の神罰。
魔王は勝利を確信し、高らかに嗤った。
だが。
絶対の闇の中。
アレスは微動だにせず、ただ退屈そうにため息をついた。
「……下らないな。法則の書き換えだと? そんなものは、僕が十年前……いや、『前世』の終わりに通り過ぎた道だ」
「な、なんだと……!? なぜ、貴様の存在が消えない!? 我が虚無領域の中で、なぜ原形を保っていられる!!」
驚愕に叫ぶ魔王の声に対し、アレスは懐から右手をゆっくりと引き抜いた。
その掌の上には、淡く光る銀色の灰が渦巻いていた。
時間を巻き戻し、因果律をねじ曲げた神話級の魔導具『クロノスの灰』
その根源たる術式は、今もアレスの魂の奥底に刻み込まれている。
「世界を支配する法則が『空間』や『環境』だと思っている時点で、お前は三流の魔術師に過ぎない。
真に世界を支配する力……それは、『時間』と『因果』の改竄だ」
アレスの漆黒の瞳が、銀色の光を帯びて冷酷に輝いた。
『――事象書き換え。因果律崩壊』
アレスが言葉を紡いだ瞬間。
魔王が絶対の自信を持っていた『終焉の虚無領域』に、ピキッ、とガラスにヒビが入るような亀裂が走った。
「ば、ばかなッ!? 我が固有結界が、ただの言葉で砕かれるだと!?」
「砕いているのではない。『最初から展開されなかった』という過去に、事象を書き換えているだけだ」
パァァァァァァンッ!!
という甲高い破砕音と共に、絶対の闇の空間が完全に崩壊した。
元の玉座の間に引き戻された魔王は、己の魔力基盤を強制的に破壊された反動で、血虫のようにドス黒い血を吐き出して床に膝をついた。
「がはっ……!? ごはぁッ……!! な、何をした……我の魔力が、根源から……!」
「だから言っただろう? 次元が違うと」
アレスはゆっくりと歩み寄り、膝をつく魔王を見下ろした。
その瞳には、かつて実の兄たちや父に向けたものと同じ、路傍の汚物を見るような絶対的な冷酷さだけが存在していた。
「前世で、僕の兄たちは無能なりに必死に戦い、お前たち魔族の数を減らしてくれた。そのおかげで、僕は悠々自適に研究に没頭し、この力を完成させることができた。……だが、今世ではお前たちに割く時間すら惜しい。お前たちの存在そのものが、僕の思い描く完璧な世界の構築において、目障りな不確定要素でしかないからだ」
「ぜん、せ……? き、貴様、一体何者だ……! 人間ではない、貴様は、悪魔よりも恐ろしい……ッ!!」
千年の時を生き、恐怖を与える側であった魔王の全身が、カタカタと情けない音を立てて痙攣していた。
理解できない。
目の前の青年は、魔力も、知略も、精神の冷徹さも、何もかもが生命体の枠を逸脱している。
勝てない。絶対に勝てない。
生存本能がそう告げた瞬間、魔王は無様に床に額を擦りつけ、這いつくばった。
「ま、待てっ! 降伏する! 我が領地、魔族の全軍、いや、世界の半分を貴様にくれてやる!! 我は貴様の配下として忠誠を――」
「お断りだ」
アレスの声は、絶対零度の吹雪よりも冷たく、そして容赦がなかった。
「お前のような無能を配下にして、何のメリットがある? 忠実な手駒なら、帝都の裏社会にいくらでもいる。それに……世界の半分? 寝言は寝て言え」
アレスは右足を持ち上げ、懇願する魔王の頭部を容赦なく踏みつけた。
ミシミシと、魔王の頭蓋骨が軋む音が玉座の間に響く。
「この世界は、すでに『すべて』僕のものだ。お前はただの不法占拠者に過ぎない。僕の庭に無断で居座る害虫は、跡形もなく駆除する。それだけのことだ」
「ひぃっ……! や、やめ、やめろォォォォォッ!!」
魔王が断末魔の絶叫を上げる。
アレスは魔王の頭を踏みつけたまま、右手の指先を天空へと向けた。
『――存在抹消』
閃光。
音すらも置き去りにする、純白の極光がアレスの指先から放たれ、魔王ヴァルヴァドスの巨体を飲み込んだ。
熱でもなく、衝撃でもない。
世界というシステムから、「魔王」という存在のデータを強制的に削除する絶対の神業。
「アァァァ……ァァ…………」
声は途切れ、肉体は灰すら残さず分解され、千年の時を支配した魔王は、文字通りこの世界から完全に『消去』された。
後には、静寂だけが残された。
「……ふむ。少々魔力を使いすぎたか。だが、これで北のゴミ掃除は完了だ」
アレスは乱れた外套の襟を直し、踵を返した。
主を失い、崩壊を始めた魔王城を一瞥することもせず、彼は転移魔法陣を展開する。
『――空間跳躍。座標指定、帝都ルミナス・帝城円卓会議室』
青白い光がアレスを包み込み、大魔導卿の姿は完全に消失した。
帝城ルミナス、円卓会議室。
皇帝と将軍たちは、アレスが消えてから一時間、誰一人として口を開くことができず、冷や汗を流しながらその帰還を待ちわびていた。
壁掛け時計の針が、夕食の時間を告げる鐘を鳴らそうとした、まさにその時。
会議室の空間が揺らぎ、アレス・ヴァン・グランベルが、出立した時と寸分違わぬ涼しい顔で姿を現した。
その服には、魔王軍の血の一滴すら、埃の一つすら付着していなかった。
「ア、アレス殿……! 結果は……」
皇帝が震える声で尋ねる。
「ご報告します、陛下」
アレスは玉座の隣の特別席にゆったりと腰を下ろし、退屈そうに足を組んだ。
「魔王ヴァルヴァドス、並びに魔王城の完全消滅を確認しました。これにより、帝国を脅かす北方の脅威は、完全に排除されました。……これ以降、帝国軍を動かす必要は一切ありません」
「おお……おおおお……!!」
「奇跡だ……! たった一時間で、人類の宿敵を単独で……!!」
将軍たちは涙を流し、皇帝は安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
彼らはアレスを「人類の救世主」「真の英雄」として崇め、賛美の声を惜しみなく浴びせた。
だが、彼らは気づいていない。
目の前に座る青年が、魔王よりも遥かに恐ろしく、無慈悲で、計算高い『絶対の支配者』であるということに。
無能な実の家族を破滅させ、裏社会を恐怖で支配し、人類の脅威すらも指先一つで消し飛ばした怪物。
アレス・ヴァン・グランベルは今、名実ともに、この世界における唯一絶対の覇王となったのだ。
「……陛下。それよりも、約束の時間は守っていただけたのでしょうね?」
「え?」
「夕食です。最高級のステーキを用意しておくようにと、僕の部下から伝わっているはずですが」
アレスの冷たい視線に、皇帝はハッと我に返り、慌てて従者に指示を出した。
「も、もちろんだ! 今すぐ、帝城の全料理人を総動員して、至高の晩餐を用意させよう! 帝国の英雄、いや、世界の救世主にふさわしい宴を!」
慌ただしく駆け出していく従者たちと、平身低頭で歓喜する皇帝や将軍たち。
その滑稽な姿を、アレスは特等席から冷ややかに見下ろしていた。
(……これで、ようやく僕の思い通りの世界になった。無能な身内も、目障りな魔族も、すべて消し去った。残るはこの広大な世界という盤面を、僕の知略で完璧に統治し、管理し尽くすだけだ)
恋愛も、友情も、家族愛も。
そんな下らない感情に振り回されることは、二度とない。
すべてを奪われた名門の落ちこぼれ末っ子は、過去の因縁を完膚なきまでに叩き潰し、自らの手で完全なる覇道を切り拓いた。
「さて……平和な世界でのディナーと洒落込もうか」
誰の影にも隠れない。
ただ圧倒的な力と知略によって世界に君臨する、冷酷なる大魔導卿。
その血塗られた反逆の記録は、ここに一つの完璧な結末を迎え、そして新たな絶対支配の歴史の始まりを告げるのであった。




