灰燼の魔導卿、永遠なる覇道
魔王ヴァルヴァドスの討伐、そして魔王軍の完全なる消滅から、五年の歳月が流れた。
かつて人類を絶望の淵に追いやっていた魔の脅威が去った後、世界は未曾有の発展と「平和」の時代を迎えていた。
魔獣の脅威が消え去ったことで物流は劇的に活発化し、帝都ルミナスはかつてないほどの繁栄を謳歌している。
だが、この平和は決して人類が手を取り合って勝ち取ったものではない。
すべては、たった一人の規格外の怪物――アレス・ヴァン・グランベルという絶対的支配者による、恐怖と合理性に裏打ちされた「完全管理」の賜物であった。
帝都の裏社会を牛耳っていた『黒梟』は、今や帝国の公式な特務機関として再編され、大陸全土にその情報網を張り巡らせている。
各国の王侯貴族が少しでも不穏な動きを見せれば、翌朝にはその首謀者が跡形もなく「蒸発」する。
表の政治においては、皇帝すらもアレスの描いた完璧な政策書の通りに動く、精巧な操り人形でしかない。
法、軍事、経済、さらには魔法技術の進歩に至るまで、世界のあらゆる事象がアレスの脳内で計算された通りに運行していく。
誰一人として逆らうことのできない、圧倒的な力と知略。
かつて「無能な落ちこぼれ」と蔑まれた公爵家の末っ子は、今や名実ともに世界を統べる神のごとき存在、『魔導卿』として君臨していた。
グランベル公爵邸、本館最上階の執務室。
かつて父クロヴィスが座っていた玉座のような椅子に、二十歳を迎えたアレスは深く腰を下ろしていた。
黒曜石のように深い漆黒の瞳は、五年前と変わらず、一切の感情を排した氷のような冷徹さを湛えている。
「――我が主。本日の定時報告に上がりました」
音もなく執務室の影から姿を現したのは、特務機関長となったガルド・ベイガンである。
彼はアレスの前に恭しく片膝をつき、束ねられた羊皮紙の報告書を差し出した。
「隣国バリスア共和国の残党が企てていた反乱計画ですが、実行に移される前に首謀者九名を拘束、すでに『処理』を完了いたしました。また、北方開拓村の魔力インフラ整備も、主の設計図通りに遅滞なく進んでおります」
「ご苦労。……バリスアの残党については、見せしめとして処刑の記録を各国の首脳陣に無記名で送りつけておけ。賢い犬なら、それだけで誰に飼われているか理解するだろう」
「はっ。御心のままに」
淡々と業務の報告を終えたガルドは、ふと何かを思い出したように、いやらしい笑みを口元に浮かべた。
「そういえば、我が主。月に一度の『旧グランベル家関係者』の現状報告ですが……お聞きになりますか?」
「……ああ。退屈しのぎにはなる。手短に話せ」
アレスが指先で促すと、ガルドは嗜虐的な悦びを隠そうともせずに報告を始めた。
「まずは、公爵邸の地下深く、特別監房に幽閉されている長男、レオン・ヴァン・グランベルについて。彼は完全に狂気を深めております。毎日、壁に向かって『俺は最強の騎士だ!魔獣王を叩き斬ってやる!』と叫びながら、素手で石壁を殴り続け、両腕はすでに骨が見えるほどに潰れています。食事も犬の餌皿から直接舐め取る始末で、もはや人間の尊厳の欠片もございません」
「……己の無能さに耐えきれず、幻想の世界に逃げ込んだか。かつて帝国最強と持て囃された男の末路としては、実に滑稽で妥当だな」
アレスは冷たく鼻で笑った。
「続いて、帝都地下の最下層牢獄に落とされた次男、ギルバート・ヴァン・グランベル。彼は光の届かない独房の中で、私が定期的に送り込んでいる特務兵たちから『教育』を受け続けております。かつての己の罪と不正を毎日一万回暗唱させられ、一文字でも間違えれば鞭が飛ぶ。最近では自分の名前すら忘れかけ、『私はゴミです』と自称して床を這い回っているとのことです」
「自身の知略を過信し、人を駒として扱ってきた男だ。絶対的な暴力の前で己の矮小さを思い知るには、丁度いい環境だろう」
ガルドは最後に、声のトーンを一段落として言った。
「そして……元当主、クロヴィス。彼は現在、帝都の第十二区画、最も腐敗したスラム街で乞食として生かしております。両手両足の筋を絶たれ、這いつくばることしかできない彼は、行き交う浮浪者から蹴られ、泥水をすすって命を繋いでいます」
「……」
「皮肉なことに、スラムの住人たちは『アレス魔導卿様が世界を救ってくださった!』と彼を前にして毎日のように讃美歌を歌っているそうです。
実の息子が神として崇められる様を、路傍の汚物として見上げ続ける絶望。
何度か自ら舌を噛んで死のうとしたようですが、その度に我が配下の治癒術師が蘇生させ、地獄へ引き戻しております」
すべてを奪われ、文字通りゴミとして這いつくばる父の姿。
その報告を聞いても、アレスの心には欠片ほどの憐憫も湧き上がらなかった。
あるのは、計算通りに方程式が解けた時のような、無機質な満足感だけである。
「……殺すなよ、ガルド。彼らには、僕が統べるこの完璧な世界で、己の愚かさを永遠に呪いながら生き地獄を味わい続けてもらわねばならない。それが、僕に『無能』の烙印を押し、断頭台へ送った者たちへのせめてもの礼儀だからな」
「御意。我が特務機関の総力を挙げ、彼らの命を『守り』抜いてみせましょう」
ガルドが恭しく一礼し、影に溶けるようにして退室していく。
一人残された執務室で、アレスは窓辺へと歩み寄った。
分厚いガラス越しに見下ろす帝都ルミナスは、魔法の灯りに照らされ、宝石箱のように美しく輝いている。
遠くに見える帝城すらも、今やアレスの足元にひれ伏す一つのオブジェに過ぎない。
(……前世の僕が見たかった景色とは、随分と違う形になったな)
アレスはふと、十年前……いや、時間軸で言えば前世の、あの冷たい雨の降る処刑場を思い出した。
あの時、彼は信じていた。
家族のために裏で尽くせば、いつか一族は繁栄し、世界は平和になると。
自分が無能を演じ、兄たちを英雄に仕立て上げれば、すべては上手くいくと。
だが、その結果は裏切りと死だった。
だからこそ、今世で彼は誰にも頼らなかった。
愛も、情も、信頼も、すべては不確定で脆い幻想だ。
世界を本当に平和にし、管理するためには、圧倒的な個の暴力と、絶対的な知略による「恐怖の支配」以外にあり得ない。
「アレス様。夜風が冷えます。どうか、上着を」
不意に背後から声が掛かり、温かい外套がアレスの肩に掛けられた。
振り返ると、そこには白髪の混じった老メイド――マーサが、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
彼女は前世において、アレスの優しさに巻き込まれて命を落とした恩人である。
今世では、アレスの徹底した保護の下、公爵家のメイド長として何不自由なく穏やかな余生を送っている。
アレスが唯一、処断せずに手元に置いている「過去の遺物」であった。
「……マーサか。気遣い感謝する」
「とんでもございません。アレス様は今や世界を背負って立つ御方。どうか、ご自愛くださいませ」
マーサは深くお辞儀をし、静かに執務室を後にした。
アレスは肩に掛けられた外套の感触を確かめながら、再び窓の外の夜景へと視線を戻した。
(この平穏も、僕が実権を握り、すべての敵を物理的に排除したからこそ成立している砂上の楼閣だ。僕が少しでも気を抜けば、世界は再び愚かな人間たちの欲望で腐敗し、新たな魔王が誕生するだろう)
アレスは右手を虚空に掲げ、軽く指先を鳴らした。
その瞬間、帝都の上空を覆うように、不可視の巨大な『絶対防衛・監視結界』が青白い魔力の波紋となって一瞬だけ瞬いた。
大陸全土の魔力脈を完全に掌握し、いかなる脅威も発生する前に探知し、自動で消滅させる大魔導卿の神業。
「僕はもう、二度と間違えない」
かつて断頭台で命を散らした名門の落ちこぼれ末っ子は、静かに、そして力強く宣言した。
「この世界は僕の所有物だ。僕の庭を荒らす害虫は、神だろうが悪魔だろうが、すべて灰燼に帰す。誰の影にも隠れず、誰にも玉座は譲らない」
夜空に輝く月光が、アレスの冷たく美しい横顔を照らし出す。
恋愛の甘さも、家族の温もりも、彼には必要ない。
あるのはただ、永遠に続く冷徹なる覇道と、絶対者としての孤高の歩みだけである。
「……せいぜい、僕の掌の上で、平和という名の喜劇を踊り続けることだ。愚かな人間たちよ」
アレス・ヴァン・グランベル。
彼が魔導卿として世界に君臨する限り、この冷たく完璧な平和が崩れることは、永遠にない。
すべてを奪われた不遇の天才が、過去の因縁を焼き尽くし、世界そのものを奪い取った壮絶なる下剋上の物語は、何一つ不確定要素を残すことなく、ここに完全なる終幕を迎えたのであった。
【完】




