第五十話「沼の底で」
水は冷たかった。
腰の深さで止まった。ここでもまだ底に足がつく。
地声に集中した。
前方の、深い場所。底が、下がっていく。あと十歩ほど歩けば、足がつかなくなる。
棒を握った。
底の白い土の感触が、棒を通して来る。ガロが七年間使った道具だ。地の中のものを感じる、という言葉の意味が、握った瞬間に分かった。
---
十歩進んだ。
足が底から離れた。
水の中を浮きながら、前に進んだ。地声は——来ている。
水の中でも、来ている。
地面が、下にある。沼の底が、遠くにあるが確かにある。棒を通して、白い土の密な感触が届く。
*これが底だ。*
深さが分かった。今いる場所から——四メートルほど下にある。
---
地声を傾けた。
沼の底に向かって、意識を落としていく。
そこで——何かが来た。
重い。圧倒的だ。地面ではなく、水を通してくる感触だ。積み重なっている。長い年月をかけて、ここに集まってきたものが。
「忘れたものたち」と、フィルは言った。
それが、今、蓮の周りにある。
---
奇妙なことが起きた。
地声の中に、言葉が混じった。
言葉というより、印象だ。映像のような、気配のような。
誰かの声ではない。でも、誰かが感じていたものが——届いた。
*親の顔。*
*道の名前。*
*何かの味。*
一瞬来て、消えた。また来た。別のものが来た。
記憶の断片が、漂っている。沼の中に、記憶が積み重なっている。フィルが言っていた通りだった。でも、これほどとは思わなかった。
---
冷静でいなければいけない。
蓮は地声を、白い土だけに向けた。
底の感触に集中する。積み重なった記憶が来ようとしても、そこには向かない。棒を通して来る、固くて密な、水を通さない土の感触だけを追う。
下に向かった。
棒の先端から地声を伸ばす——
白い土が、ある。底に積み重なっている。
それだけではなかった。
---
底に手が届く位置まで降りた。
水圧が重い。でも、体が沈んでいく。
手を伸ばした。
指先が、白い土に触れた。
固い。密だ。水を通さない。触れた瞬間、この土が何を「している」のかが分かった。
押さえている。
積み重なったものが外に漏れないように、底から押さえている。この土が、ずっと——何百年も——抑えてきた。
亀裂が入ったのは上の層だ。ここから取り出して、上に持っていけば——
---
土弾を呼んだ。
水の中で、土を押し縮める感触を呼ぶ。
地面が近い。指先に土がある。
押す。
水の中でも、土は動いた。
固まりが剥がれた。両手で抱えた。小さい。拳二つ分ほど。でもずっしりと重い。
これで足りるかどうか分からない。でも、まず一つ。
---
上に向かった。
浮き上がった。
棒を握って、縄を引いた——一回。
水面が近づいた。
光が差し込んできた。
---
頭が水面に出た。
空気が来た。
冷たい風だった。沼の縁から、ノエルの声が来た。
「蓮——!」
「来た」とガロの声も来た。低く、静かに。
ノエルが縄を引いた。蓮は縄を伝って、縁に向かった。足が底についた。歩いた。
---
縁を出た。
地面に膝をついた。
白い土の塊を、両手で持っていた。
「これ、取れました」
ノエルが蓮の前に来た。顔が青かった。
「大丈夫? 今どのくらい——今、名前言える?」
「蓮だ。今日は明後日の朝だ。ここはカルオの北の沼だ」
「……良かった」
ノエルはそのまま、蓮の肩を掴んだ。
「離れるな」とノエルは言った。「ここから離れるな」
「離れない」
---
ガロが蓮の横に来た。
白い土を見た。
「取れた」
「取れました。これで亀裂を塞げますか」
フィルが近づいた。土を見た。老人の目が、細くなった。
「……塞げる」とフィルは言った。「これを亀裂に押し込んで、土弾で固める。そうすれば、封じが戻る」
「できます」
---
スミが、蓮に来た。
鼻を蓮の手に押し付けた。土の塊の匂いを嗅いだ。
それから、スミは蓮の顔を見た。
何も言わない。ただ、見た。
---
三十分後、蓮は境目に立った。
地声で亀裂の位置を確認した。
白い土を、亀裂の場所に置いた。
土弾を呼んだ。
押し縮める感触を呼ぶ。土が固まる。白い土が、亀裂に入っていく。押し込まれる。
ぴったりと合った。
水を通さない感触が、戻った。
「……塞がった」と蓮は言った。
地声で確認した。沼の水が、ここで止まっている。亀裂から滲み出していた水が、止まっている。
---
その場に座り込んだ。
疲れた。
ノエルが隣に座った。
「終わったの?」
「封じが戻った。あとは——しばらく経過を見ないといけない」
「どのくらい」
「分からない。でも、今は止まった」
ノエルは草地を見た。
「沼の底、どうだった」
蓮はしばらく考えた。
「記憶が漂っていた」
「記憶?」
「誰かの——誰のものか分からない記憶が、沼の中に積み重なっていた。親の顔とか、道の名前とか。断片が来た」
ノエルは何も言わなかった。
「飲み込まれなかったのは——白い土だけに集中していたから、だと思う。来ようとするものに向かなかった」
---
ガロが遠くに立っていた。
沼を見ていた。
蓮は近づいた。
「七年間、何を聞こうとしていましたか」と蓮は言った。
ガロはしばらく黙った。
「兄の声が、聞こえるかもしれないと思っていた」とガロは言った。「沼に消えた者の——声が、ここにあるかもしれないと」
「底に、ありましたか」
「分からない」
「分からない?」
「いくつもあった。どれが誰のものか——分からなかった」
風が吹いた。
「でも、聞こえた。確かに何かが聞こえた」
---
フィルが近づいてきた。
「今日の記録を書かせてもらっていいか」とフィルは言った。「二十年ぶりに——封じが戻った記録を」
「どうぞ」
フィルは手帳を開いた。
「名前は」
蓮はフィルを見た。
「蓮です」
「継承士の、蓮。……分かった。名前入りで書く。今度は消えないように」
(第五十話 完)
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
この作品が少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
これから毎日更新を目標に投稿していきますので、主人公たちの物語を一緒に楽しんでいただければ幸いです。
感想やブックマーク、評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。
それでは、また明日の更新でお会いしましょう!




