第四十七話「向こうも聞いている」
翌朝、フィルから続きを聞いた。
記録に書かれた継承士の話だ。名前は残っていない。時代も正確には分からない。ただ、沼に入って底の土を取り出し、亀裂を塞いだ、という事実だけが残っていた。
「地の声を聞いていれば飲み込まない、と書いた理由は何だと思いますか」と蓮は言った。
フィルはしばらく考えた。
「沼の中は、外と違う。地面ではなく水の中だ。地声が使えるかどうかも分からない」
「でも、その継承士は使えた」
「あるいは——沼の中でも地面に近いところを歩けば、使えた。底まで降りれば、地面はある」
「底まで降りる、ということは」
「水に入る、ということだ」
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ノエルが立ち上がった。
「あたしも入る」
蓮とフィルが、同時にノエルを見た。
「あんたが沼に入るなら、あたしも一緒に入る。それだけ」
「駄目だ」と蓮は言った。
「なんで」
「継承士のスキルが飲み込みを防ぐとしたら、それはノエルには通じない」
「あんたは医者じゃないでしょ。確認もしていない」
「記録に一人で入ったと書いてある。複数で入った記録はない」
「それは一人だったからで、複数で入ったら駄目という話じゃない」
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二人は向き合った。
スミが、二人の間で伏せた。
「ノエル」と蓮は言った。
「なに」
「心配しているのは分かる。でも——」
「心配? そんな話してない」
ノエルの声が、少し上がった。
「あたしを置いて一人で行って、戻ってこなかったらどうするの。三日間消えたらどうするの。あの老人みたいに三年間になったら」
「ならないように準備する」
「準備して、なっても取り返しがつかない。分かってる?」
蓮は少し間を置いた。
「分かっている」
「分かってて行くって言ってる?」
「今すぐ行くとは言っていない。準備が必要だと言っている」
ノエルはしばらく蓮を見ていた。
「……準備って、何」
「地声で、沼の底まで届くかどうか確認する。届かないなら、入っても意味がない」
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フィルが口を開いた。
「一つ、言っていいか」
二人が黙った。
「あの記録の継承士が何をしたか、俺にも分からないことがある。でも、沼に対して何もしなかった場合どうなるかは、二十年前に俺自身が経験した」
「三日間」とノエルが言った。
「そうだ。俺は軽い方だった。もっと長く消えた者もいる。そしてこれからも、消える者が出る。亀裂が広がり続ければ——この町の人間が、少しずつ、記憶を失っていく」
ノエルは窓の外を見た。
「……分かった」と、しばらくして言った。「準備だけ、先にやって」
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昼過ぎ、蓮は一人で沼の縁に向かった。
ノエルは宿に残った。「ついていかない。でも、夕方までに戻らなかったら行く」と言っていた。
スミだけが、無言でついてきた。
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境目の少し手前で止まった。
地声に耳を傾ける。
沼の方向から来るものは、いつもと同じだ。重い。圧倒的だ。でも、慣れてきた。押し流される感じはなくなっていた。
少しずつ、沼に向かって「傾いて」いく。
十歩、二十歩、近づくごとに地声が大きくなる。溜まっている。積み重なっている。沼の底に、長い時間をかけて集まってきたものの重さが来る。
境目を越えた。
白い土の層が破れたところを、足の裏で感じる。亀裂から、沼の水が滲み出している。
さらに傾く。
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そこで、止まった。
何かが、変わった。
地声の中に、別のものが混じった。
沼から来るものが——こちらを向いた。
そう感じた。
正確には分からない。ただ、さっきまで「溜まっている」だけだったものが、蓮の方向に少し動いた。向きが変わった。
*向こうが、こちらを感じている。*
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蓮は動かなかった。
飲み込まれていない。地声は来ている。足の裏に、地面の感触がある。地面がある限り、ここにいられる。
もう少し、傾いた。
沼の底の方向に、意識が向く。
水の下に、何かが積み重なっている。その中に——白い土が混じっている。ガロが言っていた水脈の感触に似た、固くて密な感触がある。
届く。
地声が届いている。底まで届いている。
「ある」と蓮は声に出して言った。誰もいない草地で。
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来た道を戻った。
境目を出た瞬間、沼から来るものが静かになった。向いていたものが、また「溜まっている」だけに戻った。
スミが、蓮の隣に来た。
「聞こえた」と蓮はスミに言った。「届く。底まで届く」
スミは何も言わない。ただ、蓮の足元を一度見た。
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夕方、宿に戻った。
ノエルが、部屋の椅子に座って待っていた。
「どうだった」
「地声が底まで届いた。入れる」
ノエルは立ち上がらなかった。座ったまま、蓮を見た。
「いつ入るの」
「もう少し準備する。あと二、三日」
「……ガロは、どう言ってた」
「会っていない。今日は一人で行った」
ノエルは少し間を置いた。
「ガロさんに聞いてみて」と言った。「七年間、あの沼の近くにいた人だから。何か知っているかもしれない」
蓮はうなずいた。
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翌日、ガロに会った。
いつもの場所にいた。
沼に入る前に確認したいことがある、と伝えた。地声が底まで届くことも話した。
ガロは沼を向いたまま、しばらく黙っていた。
「一つ、聞いていいか」とガロは言った。
「はい」
「向こうが、こちらを向いた、と感じたか」
蓮は少し止まった。
「感じました」
ガロはうなずいた。
「七年間、同じだった」と静かに言った。「俺がここに来るたびに、向こうが動いた。答えてもらいたかった、と言っただろう。俺が聞くたびに——向こうも、聞いていた」
風が草を揺らした。
「だから、俺はまた来た。消えても、また来た」
(第四十七話 完)
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