第四十六話「沼の底に眠るもの」
数日が経った。
毎朝、宿を出る前に地声で確認していた。
亀裂からの滲出は、少しずつ広がっている。一日では分からない。でも三日続けて確認すると、北端の「濃い場所」がほんの少し南に動いていた。
急ではない。でも、止まってもいない。
「今日も広がってた?」とノエルが朝食の席で聞いた。
「少し」
「フィルが来るのを待つしかない、か」
「今のところは」
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約束の日、ガロは沼にいた。
いつもの草地、いつもの場所。杖をついて、沼を眺めていた。
「また来た」とガロは言った。振り返らずに。
「はい」
「——あの爺さんも来るのか」
蓮は少し止まった。
「フィルのことを知っていますか」
「知っている」とガロは言った。「あいつも、ここに来ることがある」
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フィルは昼前に現れた。
小柄な老人だった。ガロより少し若い。背負っていた荷物が大きかった。革の鞄に、何かがぎっしり詰まっている。
ガロの姿を見ると、フィルは足を止めた。
「……また来てたのか、ガロ」
「お前こそ」とガロは言った。
「何年ぶりだ」
「三年か、四年か」
二人は向き合った。握手もしない。抱き合いもしない。ただ、互いを確認するように見た。
それで、充分そうだった。
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「こちらの方たちは」とフィルはノエルと蓮を見た。
「調べに来た旅の者だ」とガロは言った。「沼のことを知りたがっている」
フィルは蓮を見た。目が細い。値踏みしているのではなく——何かを思い出そうとしているような目だった。
「記録を調べているのか」
「はい。ギルドに二十年前の記録がありました。封じ直しの記録です」
フィルは少し間を置いた。
「見たか」
「読みました」
「誰が書いたか、分かったか」
「署名がありませんでした」
フィルは荷物を下ろした。草地に座って、鞄を膝に乗せた。
「俺が書いた」
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沈黙があった。
「あなたが」と蓮は言った。
「二十年前、俺はこの地域を調査していた。元の仕事の話だ。記録を集めて歩いていた。この沼のことを聞いて、来た」
「来て——」
「沼に入った。三日間、消えた」
ガロが低く息を吐いた。
「そこで、ガロさんと会ったんですか」
「違う。ガロと会ったのは、もっと後だ。俺が沼で倒れた後、運ばれた先の村に、ガロがいた」
「……そういうことか」とガロは言った。静かに。
二人の間に、蓮には分からない時間の重さがあった。
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「封じ直しの記録を書いたのはあなたでも——元の文書は別にありましたよね」と蓮は言った。
「ある」
フィルは鞄を開けた。中から、古い封筒を取り出した。
「沼から戻った後、俺はこれを探した。見つけるのに五年かかった。各地の旧家や廃寺を回って、少しずつ集めた。完全ではない。でも——」
封筒の中に、何枚かの紙が入っていた。
「この沼が作られた経緯と、封じの手順が書いてある」
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「作られた」とノエルが言った。「沼が、自然にできたんじゃなくて?」
「自然にできた沼ではない。元々は、ここに何かが埋められた。それが長い年月をかけて、地下に浸透した。水が集まって、沼になった」
「何が埋められたんですか」と蓮は聞いた。
フィルは紙を広げた。古い字だった。蓮には、すぐには読めない。
「書かれた言葉で言うと——『忘れたものたち』だ」
ノエルが蓮を見た。蓮はフィルを見た。
「忘れたものたち、というのは」
「人が失った記憶が、この場所に集まってくる。古い時代から、ずっと。それを封じるために、白い土で囲った。土が溜まったものを押さえている」
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蓮は足の裏に意識を向けた。
地声が来る。沼の方向。あの圧倒的な感触。
*溜まっている。積み重なっている。ずっと、長い時間をかけて。*
沼に初めて来た日に感じたものが、今になって言葉を持った。
「封じが弱まると、溜まったものが外に漏れ出す。そして——近くにいる人の記憶を引き寄せる」
「記憶が引き寄せられる、というのは」
「ここに来た人から、記憶が抜けていく。抜けた記憶は、沼に加わる。それがまた積み重なって、封じをさらに押し広げる」
ノエルが静かに言った。「……じゃあ、この沼はずっと——記憶を集め続けてきたってこと?」
「そうだ」
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「修復の方法はありますか」と蓮は言った。
「ある」とフィルは答えた。「白い土を、亀裂の場所に入れれば封じが戻る。ただ——」
「ただ?」
「白い土は、沼の底にある。封じに使われた土が、沼の水に押されて底に沈んでいる。それを取り出さないといけない」
「沼の中に入らないといけない」
「そうなる」
ノエルが蓮を見た。
「あんた、正気なの」とノエルは言った。声が低かった。「入ったら、記憶が抜けるかもしれない」
「分かっている」
「分かってて言ってるの?」
「方法があるかどうか確認しているだけだ。まだ入るとは言っていない」
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フィルが紙をもう一度見た。
「沼に入った者の記録も、ここにある。三日間消えた者、三年間消えた者——様々だ。ただ、一人だけ、入って戻ってきた者がいる」
「どういう人物ですか」
「継承士だ」と、フィルは言った。
「沼に入り、底の土を取り出し、亀裂を塞いだ。記憶を失わなかった理由は書かれていない。ただ——」
フィルは蓮を見た。
「その継承士が残した一文がある。『地の声を聞いていれば、沼は飲み込まない』」
風が草を渡った。
ガロが、沼の方を向いたまま、何も言わなかった。
(第四十六話 完)
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