第四十二話「地声」
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朝、目が覚めた時から、違っていた。
何かが変わった、という感覚ではない。何かが増えた、という感覚でもない。
ずっとあったものが、もう少し大きく開いた、という感じだった。
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宿の部屋の床に、素足のまま立った。
押さない。感じようとしない。
ただ立つ。
来た。
建物の重さが、床を通じて地面に伝わっている感触。その下に、砂と石が混じった層。さらに下に、水の気配。細い。遠い。でも確かにある。
昨日まで、これをするには意識を向ける必要があった。
今は、何もしていないのに来ている。
*開いたままになっている。*
蓮は靴を履いた。靴を履いても、鈍くなるだけで消えなかった。
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ノエルが食堂に降りてくる前に、蓮は外に出た。
宿の前の石畳に立った。
石畳の下に土がある。土の中を、朝の冷気が降りていく感触。昨夜の雨が染み込んでいる。深いところに水の道がある。カルオの町の下を網目のように走っている。
人の足音が、地面を通じて来る。
馬車が遠くを走っている。その振動が、石畳を伝って足の裏に届く。
「……多い」
情報が多い。昨日まで能動的に集めていたものが、今は向こうから来ている。慣れるまで、少し時間がかかるかもしれない。
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ガロはいた。
今日は座っていた。草の上に、膝を折って座って、沼を見ていた。
蓮が近づくと、ガロは振り返らずに言った。
「何か変わったか」
「分かりますか」
「歩き方が変わった。足の置き方が違う」
蓮はガロの隣に座った。
「昨日の夜から、押していないのに地面の感触が来るようになりました。意識を向けなくても、向こうから届く。今朝は、宿の床に立っているだけで、建物の重さや地下の水の気配が分かりました」
ガロは沼を見たまま、うなずいた。
「そうか」
「驚かないんですか」
「驚かない」
少し間があった。
「俺が、ここに来るたびに感じていたことが——分かったんだろう」
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「教えてください」と蓮は言った。
「何を」
「地面から来るものが多すぎます。今は、情報が重なって、どれを拾えばいいか分からない。どうやって整理していましたか」
ガロはしばらく黙っていた。
「整理はしない」
「しない?」
「全部来るままにしておく。何かを探している時だけ、その方向に少し耳を傾ける。それだけだ。全部聞こうとすると、逆に何も聞こえなくなる」
「何かを探している時だけ」
「そうだ。水を探す時は、水の感触だけに耳が向く。意識して向けるんじゃない。必要になると、自然にそっちが大きくなる」
蓮は手帳に書いた。
*全部来るままにしておく。何かを探している時、その方向が自然に大きくなる。能動的に絞るのではなく、必要に応じて浮き上がってくる。*
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「一つ、試していいですか」
「何を」
「沼の方向に、少し耳を向けてみます」
ガロは何も言わなかった。
蓮は、ガロに教わった通りにやった。
整理しない。全部来るままにしておく。ただ、沼の方向に——少し、傾く。
来た。
圧倒的だった。
昨日、意識を伸ばして引き込まれかけた時と同じ感触が、はるかに大きく来た。ただ、今は自分が手を伸ばしていない。傾いただけだ。流れ込んでくる感じはあるが、飲み込まれる感じではなかった。
沼の下に、何かがある。
水ではない。水の下に、さらに何かがある。
溜まっている。積み重なっている。ずっと、長い時間をかけて。
蓮は意識を戻した。
息を吐いた。
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「何か聞こえたか」とガロが言った。
「沼の下に、何かがあります。水の下に、さらに深いところに」
「ああ」
「ガロさんは——それが何か、分かりますか」
ガロは少し間を置いた。
「分からない。でも、ある、ということは分かる。俺が七年前に初めて来た時から、ずっとある。変わらない。減らない。増えているかもしれない」
「増えている?」
「そう感じる時がある。俺の気のせいかもしれない。でも——何かが、溜まり続けている気がする」
沼の水面が、かすかに光を反射した。
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昼前に、ノエルが来た。
宿で待っていると言っていたが、来てしまった。
「ずっといるから、心配した」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
ノエルはガロを見た。それから蓮を見た。
「何か、変わった?」
「変わりました」
「……分かる。なんとなく」
ノエルはしばらく二人を交互に見ていた。それから草地に座った。
「続けて。あたし、邪魔しないから」
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夕方、帰り際にガロが言った。
「来週も来る」
「はい」
「その時、また来るか」
蓮は少し考えた。
「次の町に向かうかもしれません。ただ、戻ってくることになると思います」
「そうか」
ガロは立ち上がった。杖を手に取った。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「兄の名前を、覚えているか。昨日、俺が言いかけた」
蓮は手帳を開いた。
「——と言いかけて、止まりました。音節が途中でした。聞こえた部分だけなら、書いてあります」
ガロは手帳を見た。
「……そうか」
何も言わなかった。でも手帳を見る目が、少し違った。
「書いておいてくれて、よかった」
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宿への帰り道、ノエルが言った。
「新しいスキル、使えるようになったの?」
「なったと思います。継承が成立したかどうか、確認してみます」
蓮は立ち止まった。
スキルの状態を確認した。継承士としての感覚で、自分のスキルの一覧を内側から見る。
プールに、新しいものが増えていた。
地均しの隣に、まだ薄い輪郭で存在している。
名前は——
*地声。*
「増えていました。プール待機の状態で」
「プール待機、というのは」
「スロットに入れていないと、性能が落ちる。でも使えることは使えます」
「じゃあ今は?」
「今でも足の裏に来ています。スロットに入れれば、もっと細かく聞こえるようになるかもしれない」
ノエルは少し考えてから言った。「それって、次のスロットが開いたら、ということ?」
「おそらく」
「……頑張るしかないわね」
スミが先を歩いた。足の裏で、スミの体重が地面を踏む振動が、かすかに伝わってきた。
生き物の動きは、全部少しずつ違う。
スミのそれは、軽かった。
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