第四十一話「それでも来る理由」
翌日も、ガロはいた。
草地の端、沼から十歩ほど手前。昨日と同じ場所に、同じように立っていた。
蓮が近づくと、ガロは振り返らずに言った。
「また来たか」
「はい」
「物好きだな」
「お互い様かと思います」
ガロは少し間を置いてから、ふん、と鼻を鳴らした。
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「一つ、試しに見せてもらえますか」
「なんだ」
「地面の下の水の道を感じるというのを。実際に、どうやるのか」
ガロはしばらく黙った。
断られるかと思った。だがガロは杖を草地に刺して、その場で目を閉じた。
「見て分かるものじゃない」
「分かっています。それでも」
「好きにしろ」
ガロは動かなくなった。立ったまま、目を閉じて、足を地面につけている。
呼吸が、ゆっくりになった。
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一分か、二分か。
ガロが目を開けた。
「この下に、水の道がある。沼の方向から来て、南に抜けている。昨日より、少し流れが遅くなっている」
「感触で分かりますか」
「分かる。足の裏に来る。水は動いているから、止まった土とは感触が違う。細い流れと太い流れがある。それを聞いている」
「聞いている」
「そうだ。聞いている。感じる、というより、聞いている、と言う方が俺には近い」
蓮は手帳に書いた。
*聞いている。押さない。感じようとしない。ただ耳を澄ます、に近い感覚。*
「どのくらいで、できるようになったんですか」
ガロは少し考えた。
「気がついたらできていた。物心ついた頃には、もうそういうものとして足の裏があった」
「生まれつき」
「たぶん。誰かに教わった記憶はない」
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ノエルは少し離れたところで草に腰を下ろして、二人を見ていた。
スミはノエルの横に伏せていた。
「……あんな話し方するの、珍しい」
スミを見るでもなく、ノエルは言った。
「いつもは短く聞いて、書いて終わりにするのに。今日は、自分で試そうとしてる」
スミが耳を少し動かした。
「あの老人が好きなのかもしれない。蓮は、こういう人が好きなんだと思う。言葉が少なくて、でも深いところに何かある人」
ノエルは膝を抱えた。
「あたしは、ああいう風に生きられない。何かを諦めすぎている」
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「一つ、聞いていいですか」
ガロが目を開けた。「なんだ」
「水を探す仕事を、何年続けたんですか」
「五十年近くだ」
「報酬はどうでした。暮らせる程度には」
「並だ。飛び抜けて当てたこともない。一生、草の根みたいに渡り歩いた」
「後悔は」
ガロは少し考えた。
「ない」
「なぜ」
「他のことができなかったから。これしか、できなかった」
蓮は聞いた。
「聞こえるから、聞いていたんですか。それとも——何かを聞きたかったから、聞いていたんですか」
ガロの表情が、少し変わった。
長い沈黙があった。
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「……うまい聞き方をするな」
ガロは草地に視線を落とした。
「聞こえるから、聞いていた。それは本当だ。でも——なぜ聞こうとし続けたか、と聞かれると」
また間があった。
「水は、答えてくる。俺が感じようとすると、向こうも動く。人間と話すのは苦手だったが、水は違った。足の裏に来るものが、俺の問いに応じていた。そういう気がしていた」
「そういう気がしていた、ではなく」
「そういう気がしていた、でいい。確かめる方法はなかった。でも、ずっとそう思って生きてきた。地面の下の水が、俺に応じている。それが嬉しかった。それだけだ」
蓮はゆっくりと手帳に書いた。
*聞いていたのではなく——答えてもらいたかった。*
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「名前を」
ガロが言った。
「え」
「あんたの名前。昨日は聞かなかった」
「蓮です」
「蓮か」
ガロは少し口の中で繰り返した。
「——俺の兄の名前に似ている」
「そうですか」
「名前が」
ガロはそこで止まった。
わずかな間だった。
「兄の名前が——」
もう一度止まった。
今度は、少し長かった。
「……分からなくなった」
静かな声だった。
「今まで覚えていた。今の今まで。でも、あんたの名前を聞いて思い出そうとしたら——」
ガロは手のひらを見た。
「消えた」
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蓮は、ガロを見た。
ガロは動揺していなかった。驚いてもいなかった。
慣れている、というのとも少し違う。
ただ、受け入れていた。
「また来るか」と蓮は聞いた。
「ああ」
「なぜ」
ガロはしばらく黙ってから答えた。
「消えても、また来れば、また聞こえる。兄の名前は消えた。でも、水の声は残っている。向こうが応じてくれる感触は残っている。それがある限り、俺はここに来る。消えていくものがあっても、それだけは消えない」
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蓮の手が、止まった。
手帳の上で、ペンが動かなくなった。
*消えても来る。消えてもまた聞く。一生、ここではないどこかで、地面の下の水に問いかけてきた。答えてもらいたかった。それだけのために、五十年。*
*そして今、三年分の記憶を失った後も、また来る。*
*なぜそう生きたのか——*
胸の奥で、何かが動いた。
正確には、腹の底からではない。足の裏から、だった。
地面を通じて、何かが伝わってきた。
土の下の、遠い振動。
水の道が、どこかを流れている感触。
押していない。感じようとしていない。
ただ、来た。
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「蓮」
ノエルの声がした。
「顔色が変わった。また引き込まれてる?」
「違う」
「じゃあ何」
蓮は少し考えた。
「聞こえた」
「え」
「押していないのに、来た。今まで、感じようとしていた。でも——向こうが来た」
ノエルは蓮を見た。それからガロを見た。
ガロは沼を向いたまま、何も言わなかった。
でも、口の端が、わずかに上がっていた。
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*地面の下を水が流れている。南向きに、細い道が二本。遠く、沼の方向から続いている。押さなくても来た。向こうから来た。*
*ガロは一生、これを聞いていた。答えてもらいたかっただけで、五十年。*
手帳を閉じた。
これが、継承の感触かどうか、蓮には分からなかった。
ただ、何かが変わったことは分かった。
(第四十一話 完)
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