第四十話「聞こえていたもの」
「三年間、消えた」
老人は繰り返した。確認するように。
「三年間、どこで何をしていたか、分からない。でも、体には残っている。足腰が、あの頃よりずっと強くなっていた。ここへの道を、体が覚えていた」
「体が覚えていた、ということは——」
「頭で思い出せないが、何度もここに来ていたんだと思う。三年間、ここに来続けていた。記憶はない。でも体がそうしていた」
蓮は手帳に書いた。
「名前を、聞いていいですか」
「ガロだ。この辺の者じゃない。もともと、方々を渡り歩いていた」
「何をしていた方ですか」
「水を探す仕事だ」
---
ガロは、杖をつきながら草地に腰を下ろした。
蓮もその隣に座った。ノエルは少し離れたところに立っていた。スミは草地に伏せて、沼の方を向いていた。
「水を探す、というのは」
「井戸を掘る場所を決める。どこを掘れば水が出るか。地面の下に水の道がある。それが、感じれば分かった」
「感じる、というのは——」
「足の裏だ」
ガロは自分の足元を見た。
「地面の上に立っていると、下の水が動く感触がある。人によっては分からない。俺にはあった。それだけだ」
蓮は手を止めた。
足の裏で、感じる。
川岸での練習を思い出した。地面を通じて、川の水の動きが足の裏に伝わってくる感触。
「それで、旅をしていたんですか」
「農村が水に困っている。どこに掘ればいいか、よそ者の俺が決める。掘ってみて、水が出れば金になる。出なければ、次の村へ行く」
淡々とした話し方だった。苦労や不満を言っているのではなく、ただそういう人生だったと話している。
---
「この沼に、初めて来た時のことを覚えていますか」
「覚えている。七年前だ。川上の沼があるという話を聞いて、木が育たない土地があると聞いて——水の問題かもしれないと思って来た」
「それで、来てみたら」
ガロは少し間を置いた。
「違った」
「何が」
「水の問題じゃなかった。ここの水は、何かが違う。下を流れている水脈が、普通じゃない。流れ方が違う。溜まり方が違う。今まで感じたことのないものだった」
「それが——何かをもらった、という」
「沼に近づいたら、引き込まれた。そこから先は、三年間、ない」
ガロは沼を見た。
「でも——あの沼は、俺のことを知っている気がした。近くにいると、そう感じる。俺が何十年も聞こうとしてきたものが、向こうにある」
---
沈黙があった。
風が草を揺らした。
ガロが、ふと、何か小さく口を動かした。
声とも言えないくらいの、かすかな息の漏れ方だった。音節があった。繰り返していた。
蓮は気づいた。
歌っている。
いや、歌おうとしている。
意識しているのかどうかも分からない。口が、何かの形を繰り返していた。
蓮は耳を澄ました。
低い。断片的だ。音としてつかめるかどうかのところにある。でも——
---
ガロが、止まった。
「……俺、今、何か言ったか」
自分で気づいていなかった。
「はい。何か、繰り返していました」
ガロはしばらく黙った。
「何を言っていた?」
「音節のようなものでした。意味のある言葉かどうかは分かりませんでした」
ガロは手のひらを見た。
「分からない。何を言っていたのか、分からない。また消えた」
声が、少しだけ変わった。落ち込んでいるのではない。ただ、疲れた声だった。
「よく、こういうことがある。気がついたら声が出ている。何を言っているのかは、終わってから初めて気づく。止まった時には、もう忘れている」
---
蓮は、手帳を取り出した。
そして、ガロに向けた。
「書いておきました」
手帳に、音を写し取った文字が並んでいた。ガロが繰り返していた音節を、聞こえた順に記したものだ。
ガロが手帳を見た。
長い沈黙があった。
「これが……」
「あなたが繰り返していた音です。意味があるかどうかは分かりません。でも、あなたが声に出していた」
ガロはその文字を、指でなぞった。
口の中で、もう一度、試すように動かした。
「……分からない。でも」
目が、少し違う向きを見た。遠く、ではない。深く、だった。
「——水の道を、探していた時に、歌っていた気がする」
---
ノエルが、気づいたら近づいていた。
蓮の隣で、手帳を覗き込んでいた。
「……蓮」
「ん」
「あんた、今すごいことをしたと思う」
蓮は答えなかった。
「あの人が言っていた言葉を、記録して、返した。消えかけていたものを、戻した」
「返せたかどうかは分からない」
「でも——全部消えたわけじゃなかった」
ノエルの声が、いつもより低かった。
蓮は少しだけ、ノエルを見た。
「怖い?」
ノエルはしばらく間を置いてから言った。
「……あたしも、覚えていると思っていることが、本当にあるかどうか、確かめる方法がない」
---
ガロは手帳をもう一度見てから、蓮に返した。
「なぜ書いた」
「職業柄です」
「記録する仕事か」
「以前は、そういう仕事をしていました。今も、体が動くようです」
ガロは少しだけ口の端を曲げた。笑ったのかもしれなかった。
「俺が毎週ここに来るのは、忘れたくないからだ、と言った」
「はい」
「でも、もう一つある」
ガロは沼を見た。
「あの沼が——何かを言っている気がする。俺には聞こえる。言葉じゃない。音でもない。でも、何かが、ある。それが何なのかを、知りたい。三年間、消えたままでも、それだけは知りたい」
蓮は手帳に書きながら聞いていた。
*ガロ。水を探す仕事を一生続けた。足の裏で地面の下の水の道を感じる。沼に来るのは「忘れたくないから」ではなく「聞こえているものの正体を知りたいから」。消えても、消えても、それだけは残っている。*
「また来ますか、ここに」
「来る。毎週来る」
「次に来る時、俺もここにいるかもしれません。その時また、話せますか」
ガロは少し間を置いた。
「——構わない」
スミが、低く息を吐いた。
沼の水面が、風もないのに、かすかに揺れた。
(第四十話 完)
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
この作品が少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
これから毎日更新を目標に投稿していきますので、主人公たちの物語を一緒に楽しんでいただければ幸いです。
感想やブックマーク、評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。
それでは、また明日の更新でお会いしましょう!




