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継承士、はじめました 〜なぜそう生きたか分かった時だけ、俺は強くなる〜  作者: 柿崎 太一
第二部「旅路」

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第三十九話「沼の縁にいた人」

---


朝、早めに宿を出た。


カルオを出て川沿いを北へ。ギルドで確認した地図によれば、沼のあるあたりまで半日ほどの距離だった。


「泊まりの準備はした?」とノエルが聞いた。


「一応、二泊分」


「あたしも。帰りの時間が読めないし」


スミが先を歩いた。早朝の川沿いは、荷馬車の往来が少ない。霧が低く立ち込めていた。


---


川沿いの道は、途中から細くなっていく。


人が通らなくなるからだろう。草が道に張り出し、踏み跡だけが続く感じになる。木材を切り出す作業者たちは、もう少し手前で川を渡って向こう側の森に入るらしかった。


「この道、誰も使ってないのね」


「沼の近くには近づかない。ギルドの人間もそう言っていた」


「じゃあ私たちが何かあっても、誰も助けには来ない」


「そういうことになる」


ノエルは何も言わなかった。


---


昼を少し過ぎた頃、スミが止まった。


さっきまでと違う止まり方だった。前足に力が入っている。尾が下がっている。


「どうした」


スミは前方を向いたまま、動かなかった。


蓮は足を止めて、地面に意識を向けた。


受け取る方向で。押さない。感じるだけ。


最初は何もなかった。いつもの湿った土の感触。水が近い感じ。川の流れが地面を通じてくる低い振動。


それから——


何かが、来た。


---


衝撃、というほどではなかった。


ただ、大きかった。


川から来る振動と、別の方向から来るものが重なって、手のひらに入ってくる。川の水は「流れる」感触だった。しかしもう一方は、流れていない。溜まっている。じっとそこにある。圧のないまま、ただ満ちている感じ。


蓮はそれから意識を外した。


「……沼が近い」


「どのくらい」


「感触だと、あと少し。はっきりしないが」


ノエルが前方の木立を見た。


「スミが止まったのは」


「たぶん、匂いか音。人の感覚より先に気づいている」


スミは動かなかった。ただ、尾の位置が少し上がった。怯えているのではない。警戒している。


---


木立を抜けると、視界が開けた。


草地が広がっていて、その先に——色が違う場所があった。


水だった。


広い。思っていたより、ずっと広かった。周囲に木がない。木が育たないとギルドの男が言っていた通りで、沼の周囲だけぽっかりと草地になっている。空が丸く見えた。


水の色は、白かった。


正確には白ではない。灰色に近い。ただ、透明ではない。何かが溶けているような濁り方だった。


ラデンの廃坑で見た白い土のことを思い出した。


---


「大きい」とノエルが言った。


「ああ」


「近づく?」


蓮は少し考えた。


「もう少し、感じてみる。手を当てなくていい、ここから」


地面に片膝をついた。手のひらを草地の土に触れさせた。


受け取る方向。ただ感じるだけ。


沼の方向に、意識を薄く伸ばす。


すぐに来た。


さっきより強かった。


溜まっている。満ちている。川の水とは全く違う。川は動いている水だが、こちらは動かない。水が動かないのではなく、何か別のものが、動かないまま積み重なっている感じ。


重さ、というのが近い。


記憶が積もるように、その場所に何かが溜まり続けている。


*——この感触は、何だ。*


意識を引こうとした。


引けなかった。


---


引けない、というより、向こうが放してくれなかった。


沼の方向から来るものが、手のひらの先に残り続けた。


意識を向けていた場所が、外れない。


蓮は目を開けた。


視界は普通だった。空が見えた。草が見えた。ノエルが隣にいた。


ただ、手のひらを伝ってくるものだけが、まだ続いていた。


「……蓮?」


ノエルの声が聞こえた。


「大丈夫か」と蓮は自分に言うように言った。


手を地面から引き剥がした。


少し力がいった。


---


「何かあった?」


「ちょっと、抜けにくくなった」


「抜けにくくなった、って」


「意識を伸ばしたら、引き返すのに時間がかかった」


ノエルが蓮の顔を見た。


「顔色が悪い」


「そうか」


「本当に大丈夫なの」


「今は大丈夫だ。少し、強すぎた」


自分がやったことを振り返った。川の練習では、遠くに意識を伸ばしても、引く時に引けた。沼は違う。伸ばした先から、手放させてくれなかった。


近づきすぎると、戻れなくなる可能性がある。


*——オランが三日間、戻れなかったのは、そういうことか。*


---


スミが、草地の縁で止まった。


蓮たちとは別の方向を向いている。


沼の南側、草地の端に沿って——人がいた。


老人だった。


七十は超えているだろう。背が曲がっていて、杖をついている。沼の縁から十歩ほど手前で、ただ沼を眺めていた。


動かない。


どのくらいそこにいるのか分からない。こちらに気づいているのかも分からない。ただ、水を見ていた。


「……人だ」とノエルが言った。


「ああ」


「何してるの」


「分からない」


蓮は立ち上がった。


近づいてみることにした。


---


声をかけるより先に、老人がこちらを向いた。


目が合った。


老人は驚かなかった。ただ、蓮を見た。それからノエルを見た。スミを見た。また蓮に視線を戻した。


「……来たのか」


声がかすれていた。


「はじめまして。旅の者です。沼を調べに来ました」


老人は少し間を置いた。


「旅の者が、ここまで来るか」


「いくつか話を聞いて、来ることになりました」


「何を知っている」


「沼に近づいた人が、記憶を失うことがあると聞きました。あなたは、何度もここに来ているのですか」


老人はまた間を置いた。


「……毎週来ている」


「なぜ」


「忘れたくないから」


---


蓮は老人を見た。


老人の目は、正常に見えた。混濁していない。ただ、遠い。ここと別の場所を、同時に見ているような目だった。


「何を、忘れたくないのですか」


老人はゆっくり答えた。


「水の声。あの沼が、何を言っているか。一度分かった。でも、離れると薄くなる」


「水の声」


「聞こえる、というわけじゃない。感じる、と言った方がいい。あそこに何かある。それが何かは、まだ分からない。でも、近くにいると——近いんだ」


老人は沼の方を向いた。


「あなたは、以前あの沼に近づいて、記憶を失ったことがありますか」


老人はすぐに答えなかった。


しばらく沼を見てから、言った。


「三年前のことが、ない」


「三年間、ですか」


「ごっそり、消えた。何があったか分からない。でも、その時に——何かを、もらった気もする」


(第三十九話 完)

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!


この作品が少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。


これから毎日更新を目標に投稿していきますので、主人公たちの物語を一緒に楽しんでいただければ幸いです。


感想やブックマーク、評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。


それでは、また明日の更新でお会いしましょう!

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