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継承士、はじめました 〜なぜそう生きたか分かった時だけ、俺は強くなる〜  作者: 柿崎 太一
第二部「旅路」

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第三十八話「三日間、消えていた」

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翌朝、蓮はギルドに戻った。


昨日の受付ではなく、壁際のテーブルで書き物をしていた年配の職員に声をかけた。


「すみません。川上の沼について、詳しく知っている人間を探しています。実際に近くまで行ったことがある方でも」


職員は手を止めた。


「あそこのことを調べてるのか」


「調査依頼ではなく、個人的に話を聞きたくて」


「……一人、いるかもしれない。三月ほど前に、その沼の近くで倒れているところを発見されて、この町の診療所に運ばれてきた男だ。今は回復して、川沿いで木材の切り出しをやっている」


「話を聞けますか」


「本人次第だ。嫌がるかもしれない。あまりいい思い出じゃないだろうから」


---


男は川沿いの作業場にいた。


三十代半ばくらい、体格がいい。丸太を縄で束ねる作業をしていた。


「ギルドの紹介で来ました。沼のことで話を聞かせてもらえますか」


男は手を止めて、蓮を見た。


「……また来たか、という感じだな」


「以前も誰かが来ましたか」


「ギルドの人間が一度。それと、あっちの村からも何人か。みんな同じ話を聞きたがる」


「嫌であれば結構です」


男はしばらく黙ってから、縄を置いた。


「いや、いい。話す。ただし、俺が覚えていることしか話せない」


---


男の名はオランと言った。


三か月前、上流の森で木材の下見をしていた。沼には近づかないつもりだったが、地形を見誤って、気がついたら沼のそばに立っていた。


「そこまでは覚えてる。沼を見た。白っぽい水だった。変な色だと思った。そこから先が——ない」


「ない?」


「次に気がついたのは、この町の診療所だ。三日後だと言われた。三日間、どこで何をしていたか、まったく分からない」


蓮は手帳に書いた。


「体に異常はありましたか」


「怪我はなかった。ただ、ひどく腹が減っていた。三日間、何も食べていなかったということらしい」


「記憶がなかった三日間について、今でも何も思い出せませんか」


「何も。夢を見たかどうかも分からない。ただ、消えた」


---


「一つ、確認させてください」と蓮は言った。


「なんだ」


「三日間の記憶がないということですが——その三日間より前の記憶は、無事ですか」


オランは少し考えた。


「……だいたいは。ただ」


「ただ?」


「沼を見に行く前の一週間ほどの仕事の記録が、手帳に書いてあった。俺の字で、俺が書いたことは分かる。でも、その内容がほとんど思い出せない」


「手帳の記録は残っているが、中身の記憶がない」


「そう。字は読める。でも、その時のことが頭に浮かばない。手帳に書いた、という感覚がない」


蓮はペンを止めた。


老婆が、ジルが、歌を思い出せなかった。


オランは、手帳の中身を思い出せない。


記録だけが残って、体験が消えている。


---


「沼の水の色を、白っぽいと言いましたが」


「ああ。ただ、白というより——濁ってる、という感じだった。透明じゃない。何かが溶けてるみたいな色だった」


蓮は、ラデンの廃坑で見た白い土を思い出した。


同じ色かどうかは分からない。だが、同じ方向を向いている。


「ありがとうございました」


「調べて、何か分かったら教えてほしい」とオランは言った。「俺は今でも、あの三日間が何だったのか知りたい」


蓮はうなずいた。


「分かったことは、必ず伝えます」


---


作業場を出て、ノエルが言った。


「行くの? 沼まで」


「ああ」


「一人で突っ込んで三日間消えたりしないでしょうね」


「気をつける」


「気をつけるだけじゃ不安だけど」


二人で宿に戻った。夕飯をとるために食堂へ降りると、ちょうど他の宿泊客が数人いた。


---


食事を頼んで、蓮はノエルと今日の情報を整理していた。


「記録が残って体験が消える、というのが一番怖い」とノエルが言った。


「ああ。自分では気づかない」


「オランさんは手帳で気づけたけど、手帳を持っていない人は?」


「気づかないまま、終わる」


ノエルは少し黙った。


隣のテーブルで、ひとりで飯を食っていた男が、静かに立ち上がった。


四十がらみ、旅商人のような風体だった。蓮たちの話が聞こえていたのかもしれない。その男が、蓮のテーブルのそばで立ち止まった。


「失礼ですが」


声が低かった。


「沼の話をしていましたね」


「……そうですが」


「やめた方がいい。近づくな」


蓮はその男を見た。


目が、少し違った。怒っているのではない。どちらかというと——怖れている。


「理由を聞かせてもらえますか」


男はしばらく黙った。


「俺の仲間が一人、あそこに行った。帰ってきたが、別人みたいだった。言葉が出ない。名前も分からない。そのうち、どこかへ行っちまった」


「それはいつ頃のことですか」


「四年前だ」


「仲間の名前は」


男は首を振った。


「教えない。あんたたちが調べても、助けられない。ただ、危ない」


---


それだけ言って、男は部屋へ引き上げていった。


ノエルが蓮を見た。


「……止めに来た感じじゃなかったわね」


「ああ」


「本当に怖かったんだと思う」


「四年前から、同じことが起きている。積み重なっている」


スミが、食堂の隅から上流の方角を向いた。


耳が、ゆっくりと立った。


---


部屋に戻って、ノエルが言った。


「あたしも行くわよ。そういうことだから」


「……危ないかもしれない」


「だから行くの。あんた一人じゃ不安だし、あたし一人でもいられない」


蓮は何も言わなかった。


ノエルは窓の外を少し見てから、灯りを落とした。


「明日、早めに出るわよ」


(第三十八話 完)


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