第三十六話「あの歌には、言葉があった」
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ラデンを出る日の朝、蓮はもう一度ジルの畑に寄った。
老人は鍬を持って土を耕していた。蓮の姿を見ると、手を止めた。
「今日、出るのか」
「はい。お世話になりました」
「礼を言うほどのことはしていないが」
ジルは鍬を地面に刺して、蓮を見た。
「もう一つ、聞きたいことがあって来ました」
「なんだ」
「坑道の奥の区画で使われていた作業歌のことです。昨日、市場の老婆から聞きました。あの区画だけ、使う歌が違ったと」
ジルの表情が、少し変わった。
「……あの婆さんも、覚えていたか」
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老人は、しばらく空を見ていた。
「覚えている、はずだった」
「はずだった?」
「俺も今、思い出そうとしたんだが……出てこない。変な話だろ。三十年歌っていたのに」
蓮は何も言わなかった。
「節回しがあったはずだ。坑道の中で声を合わせて、掘るリズムを作る。あの区画だけ、他と違う歌を使っていた。俺はそれを知っていたはずなのに——」
ジルは口の中で何かを試すように、小さく声を出した。
少し間があった。
「これじゃない。これは別の区画の歌だ」
また少し間があった。
「……分からなくなった。今まで、ずっと覚えていると思っていた」
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老婆と、同じだった。
話そうとして、初めて思い出せないと気づく。
蓮は手帳にそれを書いた。
「一つだけ、教えてもらえますか。節回しや音は出てこなくても、あの歌がどんな歌だったか、覚えていることはありますか」
ジルはしばらく考えた。
「……リズムのためだけじゃなかった」
「どういうことですか」
「作業歌は普通、掘るペースを合わせるためのものだ。でもあの歌には、言葉があった。ちゃんとした、意味のある言葉が」
「何を言う歌だったか、覚えていますか」
「それが……内容は出てこない。でも、歌の意味については教わった記憶がある。先輩から、あの区画に入る前に言われたんだ」
「何と」
ジルは目を細めた。
「地面が、聞いている——そういう歌だと言っていた」
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蓮は、ペンを止めた。
地面が、聞いている。
「その言葉の意味を、説明してもらいましたか」
「いや。そういうもんだと思って、特に気にしなかった。若かったからな。仕事に慣れることで頭がいっぱいだった」
「今は、どう思いますか。その言葉」
ジルは少し考えてから、答えた。
「……分からん。でも、あの区画で働いていた時、確かに何かが違う感じがしていた。土の質が違うのか、空気が違うのか。怖い、というわけじゃない。ただ、静かだった。他の区画より、ずっと静かだった」
「静かだった」
「ああ。音も少なかったし……なんというか、耳を澄ましたくなる場所だった。だから、あの歌が合っていたのかもしれない。地面が聞いているなら、こちらも静かにしなければならない、みたいな」
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ジルと別れて、蓮はノエルとスミが待つ宿に戻った。
荷物はもうまとめてあった。
「話せた?」とノエルが言った。
「ああ」
「何か分かった?」
「二つ」
蓮は歩きながら言った。
「ジルさんも、あの歌を覚えていると思っていたが、思い出そうとしたら出てこなかった。老婆と同じだ」
「……やっぱり」
「もう一つは、あの歌に言葉があったということ。地面が聞いている、という意味の歌だったと」
ノエルは少し沈黙してから言った。「地面が、聞いている」
「ああ」
「それ、あんたが壁に手を当てた時にやっていたことと、同じじゃない?」
蓮は答えなかった。
スミが、二人より少し先を歩いた。
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町の出口を抜けて、道に出た。
次の目的地はカルオ。ここから二日ほどの距離にある、川沿いの交易町だ。
ラデンでの収穫を手帳に書き留めながら歩いた。
*白い土——ラデン廃坑の奥にも存在。シリウス農村と同一現象の可能性。*
*忘却現象——ジルと市場の老婆、二人が独立して同じ状態にあった。「覚えていた」が「思い出そうとして気づけなかった」。*
*作業歌——あの区画だけ使われた言葉のある歌。意味は「地面が聞いている」。歌の内容は失われた。*
三つが、同じ方向を向いている。
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昼を過ぎた頃、スミが急に止まった。
蓮も足を止めた。
危険察知が、じわりと反応している。
道の右側——低木が続く茂みの方向だった。
「来る」と蓮は言った。
「どこ」
「右。二つ、たぶん」
ノエルが短剣を抜いた。その動きに、一切の迷いがなかった。
茂みが揺れた。
出てきたのは、犬ほどの大きさの魔物だった。二頭。体は茶色で、口が大きく裂けている。ただの獣よりも動きが速い。
「分担する」とノエルが言った。「あたしが左を引きつける。右はあんた」
「ああ」
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ノエルが加速した。
スピードが上がる、というより、景色が滑るように見えた。一頭の前に回り込み、短剣で牽制する。魔物がそちらに向く。
その間に蓮は右の一頭に土弾を放った。
当たった。魔物がよろめく。
もう一発。今度は前脚に。動きが鈍る。
スミが飛び込んで、喉元を押さえた。
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左では、ノエルが魔物を翻弄していた。
速い。魔物が向きを変えるたびにもう別の位置にいる。足を払い、体当たりで崩し、短剣を入れる。一対一なら、ノエルは圧倒的に速かった。
「終わった」とノエルが言った。
蓮も一頭を仕留めていた。
スミが鼻を鳴らした。
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「怪我は」と蓮は聞いた。
「ない。あんたは?」
「ない」
ノエルは魔物の死骸を一瞥して、「素材になるかな」と言った。
「一応、回収する」
二人で必要な部分を処理していると、ノエルが言った。
「あんた、さっき先に気づいてたでしょ。茂みが動く前に」
「危険察知が反応した」
「でも止まるの、ちょっと早すぎた気がしたけど」
蓮は少し考えた。
「歩いている時、足の裏から地面の振動を受け取っていた。たぶん」
「……いつからそんなことしてたの」
「意識してたわけじゃないが、昨夜練習してたことが、少し残ってたのかもしれない」
ノエルは何も言わなかった。ただ、少し目を細めた。
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道を再開した。
スミが先を歩き、ノエルがその横、蓮が少し後ろを歩いた。
*受け取る方向——地面の振動が、足の裏を通じて伝わっていた可能性。意識的に使えるかどうかは、まだ分からない。*
手帳に書きながら、蓮は顔を上げた。
道の先に、森が見えた。
ラデンで感じた「弾かれた向こう」——その意味を、次の町でも探し続ける。
(第三十六話 完)
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