第三十三話「伝わる、という感覚」
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ジルは、宿の近くにある小さな飯屋に蓮を連れていった。
「立ち話で済む話じゃないと思って、昨夜から気になってて」
席に着いて、老人はゆっくりと話し始めた。
「三十年、あの坑道で働いた。仲間の名前も、採掘した場所の記録も、事故の日のことも、全部覚えてる。なのに、一番奥の区画だけが……」
「どんなふうに、空白なんですか」
「場所は分かる。あそこだ、ということは体が覚えてる。でも、中に入って何をしたか、誰といたか、何を見たか——そういうことが、全部、ない」
「いつからそうなのか、分かりますか」
「廃坑になってからだと思う。働いてた頃は、普通に覚えてたはずなんだ。少なくとも、そう思ってる。でも本当にそうだったのか、もう確かめようがない」
蓮は手帳に書きながら聞いた。
「他の元作業員の方は、同じようなことを言っていますか」
「直接聞いたことはない。ただ……あそこの話になると、みんな口が重くなる。何があったか分からない場所の話は、しにくいもんだろと思ってた。でも、もしかしたら、みんな同じで、誰も言い出せなかっただけかもしれない」
蓮は、ペンを止めた。
「場所だけがあって、中身が消えている」
「……そういうことになるな」
それは、あの農村の老人が言っていた言葉と、同じ形をしていた。
何かがあったとは伝わっているのに、中身が伝わっていない。
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その日の午後、蓮は再び坑道に向かった。
ノエルとスミも一緒だった。
「また来たの」とノエルが言った。
「もう少し確かめたいことがある」
「昨日と何が違うの」
「昨日は、伝わる感覚がうまく使えなかった。今日は少し、試し方を変えてみる」
昨日の振動音の場所まで来て、蓮は壁に手を当てた。
昨日は「広がる」ことを意識しすぎて、自分の力を外に押し出そうとした。
今日は逆に、自分が壁の中に入っていくような感覚で、静かに意識を向けてみた。
向こうから伝わってくることを、受け取る。
雑貨商の男が言っていた「粒を寄せ集める」とも違う。水が「圧の低い方へ流れる」とも違う。
どちらでもなく——聞く、に近い感覚だった。
*ああ、これは。*
聞き書きの仕事をしていた頃、相手が話し始めるのをただ待つ時間があった。
急かさず、急がず、ただそこにいる。相手が言葉を出す隙間を、黙って空けておく。
今やっていることは、それに似ていた。
力を使うのではなく、土に話しかけてもらう、という感覚。
壁の内部の情報が、少しずつ届いてくる気がした。
水の流れ。岩の層の境目。そして——
奥の方に、何か、質感の違う場所がある。
岩でも水でもない。土に近いが、土とも違う。
手を離した。
「どうだった」とノエルが聞いた。
「……何かある。奥の方に」
「水じゃなくて?」
「水とは違う感触だった」
スミが、坑道の奥の方に向けて一歩踏み出した。
そして、昨日と同じように、足を止めた。
スミの止まる位置と、自分が感じた場所が、大体同じ方向だった。
ノエルが、静かに言った。「スミも、感じてるってこと?」
「分からない。でも、同じ方角を気にしてる」
その日は、それ以上奥には進まなかった。
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宿に戻って、蓮は手帳を開いた。
*伝わる感覚は、「聞く」に近い。力を押し込むのではなく、受け取る。*
*ジルさんの記憶の空白。スミが止まる位置。壁の奥の質感。三つが同じ場所を向いている。*
*継承の発動条件は「なぜそう生きたか理解した時」だ。土に対しても、同じことが言えるのか。土が「どう在るか」を理解した時、もっと奥まで届くようになるのか。*
答えは出ない。ただ、問いの輪郭がはっきりしてきた。
スミが足元に来て、蓮の膝に頭を乗せた。
「お前は分かるのか、あそこに何があるか」
返事はない。ただ、穏やかな重みが膝の上にある。
それでも、なぜか、急がなくていいと言われた気がした。
(第三十三話 完)
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